ウエイトトレーニングをする理由はさまざまです。競技力を高めたい。ダイエットしたい。体型を整えたい。筋肉をつけたい。機能的になりたい。運動不足解消やストレス解消。などなど。そして、たしかにやり方や考え方もいろいろあって、その用途に合わせたやり方や考え方を選ぶことになるのでしょう。

ここまでは普通の内容です。
しかし、こういったことを触れても、
本人の感じ方の良い悪いで、理解のされ方もがらりと変わってきます。

「やりさえすれば、結果が出る」みたいに考えていると、おそらく結果も出にくく、やってる最中もいまひとつ充実もしないでしょう。そこには「感じる」ということが欠如してるからです。「感じる」ということが欠如してると、自分で判断できてない、という意味ですので、「正しい判断力」が芽生えません。「耐えれば結果が出る」・・・これが、耐えても耐えても結果が出ない一番の理由だと思います。

では、どのように感じればいいのでしょう???トレーニングとは痛める要素。だから休養と栄養が大事。そう思いこんでトレーニング中は「いためること」「いじめること」を感じればいいのでしょうか???たしかに体は作られます。しかし、機能という面では間違いなく低下します。それは、やっててそういう動きを(自覚があるなしに関わらず)感じてるからです。でも、これも「感じ方が悪い」と、「その苦痛や違和感」に「疑問すら」感じません。歯を食いしばる。おなかを力ませる。筋肉が焼け付くようにパンプアップ。体の発達にはいいでしょう。しかし、機能では、そういう動きが刻まれます。耐える能力がぐんぐん身につきます。しかし、同時にいえるのは、「危機を感じる能力」や「判断力」が低下する。そう思います。

やる最中の実感が大事です。ようは、どう動いたのか、が大事です。それが、もっとも理に適う動きであることが、最重要だと感じます。重さが過負荷としてかかるウエイトトレーニング。それだけでじゅうぶん、体も発達はします。それだけではありません。「動作の記憶」もされていきます。良くも悪くも。「挙げなければいけない」という思考は、「挙がらない」という感情の表れです。

交感神経優位が悪いわけではありません。それが「ポジティブ」に働くか「ネガティブ」に働くか。そっちが大事です。やる気がみなぎる。楽しくて仕方ない。そういうときは「ポジティブ」になっています。だから、「しんどくなったら、休む」「おかしいと気づいたら、立ち止まる」などの判断ができます。このときは、自信を持って休んでいる。休むことを許している。だから、思い切り休めている。これは、ポジティブな副交感神経優位ということです。反対に「不安でやっていたら」、それはネガティブな交感神経優位。「抗う」「闘う」「我慢する」これらも一緒。だから休むときにも罪悪感を感じます。副交感神経優位への切り替えもしにくく、ストレスも溜まるでしょう。さらに今度は、覇気がなくなり、気力の低下。これはネガティブな副交感神経優位。脱力もこのように誤解されても困ります。

どうせ重りを扱うなら、私なら、「やる気がみなぎる」「楽しくて楽しくて」「不思議で面白くて」「快適で」という手法を選びます。不安の裏返しで動かすのではなく、「信じる気持ちを持って」やるのです。無意識に人の思うことは、無限です。でもその無意識が現実を生むこと。私のなかでは、重りの重さを、普通に受ければ、普通に挙がってくれる。理屈もなく動いてくれる。考えないほうが、その思考を捨てたほうが、自然体でうまくいく。そういうものだと思います。受け容れないから、筋力で戦ってしまうのです。だから、苦痛になる。硬くなる。実用性が生まれない。重りを受け入れ、自分と重りを信じきれば、重りが動きを運んでくれるもの。だから快適で、楽しくなる。でも充実する。温まる。ポジティブな意識が、ポジティブな結果を生むのです。そう感じます。

どういう気持ちで取り組むか。それによって、結果もがらりと変わるし、人としてのあり方や生き方まで影響を及ぼすと思う。あるいは、生き方どおりのやり方にもなってしまうのかもしれませんが。。。「結果のためなら手段をいとわない」という生き方なら、そういうやり方を選ぶのだと思います。でも生き方がそうであるように、「本人の素直な感じ方」が低く、「我慢」と「争い」で生きるので、おだやかではないでしょう。いつも負けてる気分で生きてるような気がします。私には耐え難いことです。感じ方を捨てて、ねばならない風の思考に走り、いばらをわざわざ選ぶのではなく、感じ方を大事にし、いばらを避ける判断力にしたがって行動したほうが、日々のプロセスに満ち足りるし、つまりそれは、日々勝ち癖を刻むことになり、いつまでも向上することを意味します。

うちは、結果もそうですが、ある会員様のことば「これまで習い事という習い事は1~2ヶ月も続かなかったけど、こんなにも長くしかも我慢がなく続いているのは、(このトレーニングが)初めてだ」など、プロセスを大事にしてるから、結果もでるし、しかも楽しく継続できる。我慢でそのばしのぎ風。それが悪いとは言いませんが、我慢のない、豊かで、それでいて好転していくやり方だって、あるんです。そういうものだと、トレーニングの世界を通じてですが、思います。気張らない。踏ん張らない。我慢しない。いばらを選ばすして、それは実現してもいい。罪悪感なく、叶って良い。




2017.03.03 進化
落ちるという私が作った動作法を私が提唱しています。10年以上も続いてます。でも、10数年前の「落ちる」と今の「落ちる」では、根本では一致しても、やはり変化というか進化というか、改善もあるし発見もあるし、抽象が現実味や具現性を帯びたりするようになってきたと思います。重力と時間にかみ合う動きですが、重力とかみ合えば時間ともかみ合える、とも言い換えることだってできます。そういうことを、ウエイトトレーニングやその技術、いえ重さの感じ方が教えてくれたりします。

感じ方だって、最初に感じた感じ方と、経験を積んだ感じ方では、大きく異なっていきます。しかし、最初のころは、簡単な感じ方でじゅうぶんです。それよりもまずは、「我慢せずに、感じること」「争わず、味わうこと」だと思います。このブログでは、私の最近の感じ方を紹介したことがありますが、いきなりそれをやるのではなく、それこそ落下するりんごをどうキャッチしたら手が痛くないか、あたりから始めるとか。

一気に完成させよう、とするのは、一気に「だめだ」「まだだ」を実現させてしまいます。
「まだだ」ではなく「いまは」を実感することで、そこであえて止まることで、達成感を味わえます。
「いまは」の達成感。そのプロセスです。

感じ方に従順になる、ということは、自分がわかる、ということです。
自分の愛し方がわかる、自分の肯定の仕方がわかる、ということ。
考えてしまえば、いくらでもたくさんのものが作り出せるでしょう。でもそこには実体がない。
実体はおろか、自分がない。仕方なく学ぶもの、なら、それは必要なものか、問うべきです。

体で感知する。

その感情を味わう。

結局、トレーニングというのは、それだけのような気がします。
それのために、トレーニングがあるのです。
体を賢くさせる。自分で感じる。自分を肯定する。

その肯定度合いを高めていく。



あとはその人の感性が、さらに先へと突き進ませるのだと思います。
「こうなるのが、当たり前」「こうするのが、当たり前」という発想を捨て、
「こう感じた」と言える自分でいたいですね。




たとえばお客様からの言葉。「今日は調子がいまひとつで、前回は良かったのに」
以前の私なら、「そんなことはない」とその言葉を認めず、(お客様のことを)否定して、励ましていたような気がします。今なら、「そうなんですね」みたいに認めてあげられます。だから、頑張れ、なんて言いませんし、また良くなるよ、とも言いません。「そうなんですか」「そう感じるんですね」。そうすることで、「どこが良くないのか」納得いかないのか」が「具現性」を持つのです。これはとても大事で、そうやって『自分を感じる』ことが、解決法になります。認めずに感じられずに『漠然としたマクロ』は、認めて感じることで『バラバラに細分化させて具現化すること』にしてあげるのです。ですのでその上で「ここをちょっと見つめましょうか???」みたいなことはします。そうやってあくまで「今を感じていただくように」します。

「でも・・・・」と反論するのは、初めから相手を拒んでいるのだと思います。
それが前向きな方向であっても、そうだと思います。

そして、仮にうまくできなかった場合でも、「言い訳」や「身勝手な自己分析での弁解」をする場合は、うまくいってないことを認めてないんです。だから、うまくいくことはないでしょう。それより素直に「今日はうまくいかなかったな」と「認める」ほうが、すばらしいのです。すばらしい声だからこそ、私は「認めてあげる」のです。少なくとも、認められたとき、心が自分に向かっています。自分の感じ方ができています。でも言い訳するなど認めないときは、相手を見ていたり、思考で裁いていたりしてて、自分の感じ方ではありません。

うまくいかなかった。言い訳しない。認める。感じられる。
すると、向上心が湧き出ます。建設的に行動もできます。
感情をすぐに処理できますし、健全です。すがすがしい、とも言います。

言い訳ばかりすると、悲観的破壊的否定的な思考や行動になりかねません。
その言い訳が強がりになり、我慢になり、それが残るのです。
ますます自分の感じ方が鈍り、そのうち「わからない!」と人まで責めかねません。



まずは、認めてみる。
認めたら最後、、、じゃありません。
「認める=支配される」となってしまうのが、そういう思考でしょうから。
そういう思考に走るから、誤ったポジティブシンキングみたいになってしまうのかもしれません。

認めれば、逆に誰からも支配されないし、支配もしないのです。
認めることは、自分を愛することじゃないでしょうか???
自分を愛し足りないことが原因で、うまくいかなくなるのでしょうから。。。




運動って、とくにウエイトトレーニングって、思うんですが、

テスト勉強のような「ここ、テストに出るから、しっかり覚えて置くように」風の注意の仕方。
ようは、「その注意事項が、ありありとわかる動作」
「そこを、しっかり、注意してますよ」風の動作。

実際にやればわかるけど、間違いなく動きが硬くなります。
しかし、そこが「専門性」という圧力なのか、それが正しい、と思い込まされる。
結局、、、思うんです。。。好きでやってないんだな。。。って。。。



安心感も安定に摩り替わり、最低源さえよければそれでいい。
そうやって「我慢」で取り組むんです。
我慢のさせ方の旨さが、専門性に摩り替わるんです。

私なら、、、我慢するぐらいなら、「やりたい・やりたくない」の判断を煽ります。
それでもそういうものだから、、、とおっしゃるなら、その人の責任でそうしてもらいます。
でも、そこに疑問を感じる人なら、「どうすれば心地良いか」一緒になって探します。



落ちる、という動きは、はじめから心地良いものを探しぬいた動きです。
注意点すら包み込んでしまえる「動きのながれ」があります。
テスト勉強の暗記物のように、我慢して、構えて、覚えよう、覚えなければ、ではありません。

重さを感じられれば、、、あなたの体は、どう反応するでしょうか???

それを、その実感を、楽しんでもらってるまでです。


結局それが、、、「ここで言うところの」テスト勉強をせずしてパスする方法、というか。。。
せっかく自分でできてるのに、
みすみす他者承認に陥って自信をなくすような愚は、避けたいものです。



これまで私は、さまざまなレベルの方を見てきました。世界レベル・日本レベル・関西レベルあるいはまったくの無名選手、そういう基準とは無縁の一般中高年など。ただ思うのは、「こういう人がうまくいってたな」という感じや記憶だけはあります。そういう人は、選手レベルとしてだけじゃなく、人として一流なのかな???と感じずにはいられませんでした。



「自分の分野では一流でも、トレーニングの分野では、一年生」



そういう気持ちが、吸収するでも「素直さ」となり、貪欲さを生みます。

「でも・・・・」とは言いませんし、疑いなく信じます。実際にそう私に言ってくれたアマチュアゴルファーもいました。「武田さんを信じてるから・・・・・」だから彼は、スクワットでは60kg程度しかできないのに、でも動きがすばらしいから、ドライバーで300ヤードを超えたり、プロにも勝ったりするなど(彼は会社経営者です)、成果を出されたんだと思います。知ったかぶった質問などはありませんでした。たたただ、実感を楽しんでもらえ、「落ちる」「等速」など、その言葉を自分の言葉のようにゴルフ仲間に楽しく語らっていました。

実際にこれとは反対に「でも・・・・」とおっしゃる方も数多くいました。ある方は、「トレー二ング後は筋が弛緩する」ということを「感動」と捉えませんでした。私の「落ちるスクワット」でたしかにほぐれはしたものの、彼いわく「重量から解放されれば、軽く感じるものじゃないんですか???」。そこで、彼が普段からやってる「私が硬い動きだと指摘したスクワット」をやっていただき、その後腰をぐるぐる回してもらいました。すると、、、(腰まわりががっちがちで)言葉を失っていました。でも思えば、最初から「信じよう、としてなかった」のだと思います。対立するチャンスを窺っていたのかもしれません。私もあのとき、実際には気分がすっきりはしませんでした。彼に恥をかかせた気分にもなったし、またどこかで疑うだろう、そう感じていました。

一年生になれるから、、、丁寧に感じよう、実感しよう、と謙虚になるものです。
自分のために、味わおう、とするものです。
損得勘定で、上級生気分で「裁く」ようなことは、しないのです。

信じる気持ちがあるから、今、この実践時間を大事にし、実感を大事にできるのです。
信じられる人は、他人に対して、もそうですが、「自分に対して」信じきれているんだと思います。
知ったかぶって、先ほどの例みたいに赤っ恥にはならないはずです。



「一流は、一年生になれる」



そう思えてなりません。
そういう気持ちが、感性を磨き、自分の成長へつなげていかれるんだと思います。
私も「刺激」になるぐらいです。




これまでは、「でも・・・・」という人にたいし、こちらもまじめになってしまい、その人の思うばかりに、「愛のある説得」をしてきました。たしかに最後には、わかってくれたときには、「やってて良かった」って思いました。報われた、って気にもなりました。でも、思ったんです。その間のつらかったことつらかったこと。。。最後の喜びのために、ここまで我慢してたことが、今振り返れば、正しかったのか、わからなくなってきたんです。

うちは、数値を捨ててでも「うごき」を見直します。あるいは初期だからこそ、力に頼らない動きを会得してもらいます。でもなかには、できない言い訳に、本人力みまくっていることを棚に上げて「力がないから」とか、力みまくってることを棚に挙げた「これってどういう意味があるんですか???」という質問など、当トレーニング(の方針)を何だと思ってるんだ、と相手にも自分にも失望したりもした。でもここまで掲げてても、まずは「理解は得られていない」と考えるようにしました。その上で、「でも・・・・」が始まったら、その「でも・・・・」を受け入れます。ただし、「でも・・・・」と言った方の責任のもとで。私の方針を告げた上で、「それでもあなたがこう思うのでしたら、、、あなたの責任の元で」。じゃあ、、、力をつけましょうか。。。それで満足なら、それでいいんです。

最後のためだけのその我慢というプロセスより、我慢のないプロセスを刻もうと思います。
私が、私を、大事にするためです。
でも結果、相手を育むことになり、相手を成長させるんじゃないか、と思います。




2017.02.27 自由意志観
ここ数日、自由という言葉の意味についてを真剣に考えていました。これまでたとえば「固めるトレーニングをする人を、批判まではいかなくとも良い気がしなかったり」など、自分で自分を傷つけていたのも、そういう人にたいして自由を認めてなかったから。自分の人生を変えることはできても、人の人生まで変えることはできません。逆に、人から生き方を変えるように言われても、自分で決める自由があります。

人の自由を認められなかった背景には、自分の自由を認めきれていなかったことがある。そう気づいたんです。以前は雑誌に執筆してた勢いあったころは、動作の提唱者みたいだったけど、少し前、あるスタッフがある会員に私のことを紹介するのに「彼は動作の専門家です」と紹介したもらったとき、こういわれたのも10年以上も久しかったせいか、自分がすごくびくついてしまっていて。。。振り返れば「そこだな、、、」と思ったんです。自分を肯定してあげられてなかったんだ。。。と。

だから、堂々と「落ちる、という動作法の提唱者」として生きていこう、と。

振り返れば、他者承認に頼りすぎたいたのでしょう。自称の提唱者じゃだめだと自分を罰す。
それより、わかりやすさという人当たりを求め、自分を押し殺した、他人を中心としたような。
気づいたら、そうなっていたのかもしれません。実際にあのとき、びくついてしまったのですから。

だからまずは、自分もことをかばってあげる、認めてあげる、自由を与えてあげる、という意味で、
「私はこうします」
「すでにこう、決めています」
という、提唱者としても明確な意志を打ち出す。

「私ができるのは、ここまでです」
「私はこう決めています」
と「できること」や「やること」を明確にしてみる。
こうすることで、同意したか否かの不明確なやり取りから解放され、クリアになる。

「私は、こう考えています」
「私は、こうします」
という自由をはっきり打ち出したことで、私自身もすがすがしくなり、
あとは相手の自由であって、その責任もついてくる、ということです。



人を育てることが指導者仕事かもしれないが、その前にコーチでもあります。
実際は、こちらが育てるではなく、こちらが頑張るわけではない。
これだと、逆に人が育たない。それこそ他者承認という依存や無責任になる。

あくまで重りという具材を与え、実感をする「きっかけ」を与えること。
あとは自由に実感していいですよ。ということ。
でも、自然になれば、素敵な感じ方をしますよ。ということ。その結果が、落ちるなのですから。。。

自分が提唱者を封じてしまうのと一緒で、つまりこちらが他者承認になってしまうことで、相手も逆にミスミス他者承認にしかねない。人を育てなければいけない、という思考が、誤った伝わり方を生み、自分を支配的にし、相手を支配下にしてしまう誤解がある。初めからそういうものだと思い込んでしまう、あるいは過程でそう思いこんでしまったら、大変です。意志を持たない依存になる。ようは、自分はどうなってもいいから、育てて欲しい、という無責任。そういう立ち位置から出てくる質問は、ワンマンな丸投げ質問です。それは、自分を感じれていないスタートになります。実感もできないでしょう。うわべは「変わりたい」でも本心では「やりたくない」のですから。

そうではなく、「結果的に人を育てる意味でも」、自分が自己承認になることで、相手に自由を与え、相手が自然を実感していただき、相手が意志を持つ。私が育てるんじゃない。あくまで伝えるだけ。変わるのは、あなただよ、と。あなた次第だよ、と。こうすることで、お互い心地良い責任感が芽生えます。信頼ともいうのでしょうか。。。これは以前も申してきたが、ジム内の中でも私といるその場所だけは、「実感を楽しむ空間」なんです。「楽しむ空間」なんです。自立を育み、自由と意志と責任が心地よく。その結果で生まれる「落ちる」ですからね。。。

「私はこう感じています」
「私はすでに、決めています」
「私にできるのは、ここまでです」



他人が基準ではなく、自分が意志を持って。
誰かの賛同で行動するのではなく、自分の賛同で行動する。
そういう「ウエイト動作」で、そういう「落ちる動作」じゃないか???

相手のことで否定的になるとき、
自分が疎かで自分を大事にできてないことが、わかるようになってきたんです。
自分で自由を奪っているんだ、って気づくようにもなってきたんです。

以前はそうやって相手に不快感を感じていたが、私が自分の自由を奪ってしまい、責任を過剰にかかえていたから。だから積極的に、、、自分のことで肯定し、肯定的に行動しよう、って。結果、、、相手も尊重できたりするわけですから。。。人に認められないことが前提ですが、他者承認ではなく自分承認に頼りたいし、そういう姿勢を伝えていけるようにしたいし、そういう動作法や強化法でもありたい。

自分に自由を。これが最初にありきだと、今では実感しています。




若い頃、、、いえ、、、つい最近までそうだったのですが、、、


お客様のひとつの質問にたいし、
私の好奇心でつい「10個も20個も」答えてしまう勢いで楽しく答えていました。
マニュアル返答じゃなく、楽しい空間にしたい思いから、自分が楽しみたいから。


角度を変えれば、また違う見方もできるし、
これが絶対、とは言い切れないわけです。
でもそこが「楽しい」っていえば楽しいのですけれど。。。


でも、、、それをやめてみようと思います。


最低限の答えしか言わない。


ただ、興味が沸き立つなら、向こうからまた良い質問をされるはず。


そのときが、私のほんとうの腕の見せ所だと思った。


ようは、、、、中立なオーダーメイドです。




これは、ウエイトトレーニングの動作ではもちろんなんですが、、、
ありとあらゆることにもいえるような気がしてきました。

人の理想はその人それぞれです。
自分の理想と他人の理想とが一致するとは限りません。
重りを与えて、どう感じるか、それはその人次第です。

だから、、、こう感じなさい、とは言いません。

やらされ感でやったほうがいい、という人もいる。
流れ作業が良く、好きでやってるわけじゃないのなら、それでも良い。
反対に、理想や奇跡を知って、味わってみたくてやるのも、それで良し。

ただ私は、、、ウエイトトレーニングや運動を通して、豊かさを追い求めています。
方法論ではなく、感じ方を重視しています。
自分にこうした自由があるのだから、他人にも自由があっても良い。

そう思えるようになったのです。



でも、、、自由が与えられる以上、、、責任も発生します。



それだけです。



誰がその選択をして、その責任が誰にあるのか、ということです。





自転車(27インチ)を飛び越えた大人気ない43歳です。
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でも見て欲しかったのは、、、、案外、ジャンプの前後でもある最初と最後の歩く動きです。
「着く前に、、、着けている」かのようなそういう感じ。
「着いてから、蹴る」じゃなく、「着く前に着き、着いたときにはもう蹴れている事後処理」

でもジャンプ動作も、よく見たら、、、
「今!跳ぶ」ジャンプじゃないはずで、
「跳ぶ前から、それをやっています」

・・・・

スクワットの戻す動きとかもそうですが、

時間や重力のながれが、まるで「ベルトコンベアーのよう」に「上から下へ」ながれていて、
そのコンベアーに「タイミング」を合わすには、
自然と体はそうしませんか??そうなりませんか??

というふうな歩き方やしゃがみ方や跳び方や動き方になりますよ。

という話です。これは、スクワットではありませんけど。。。
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・・・・
・・・・


それぐらい、、、余計な動きをいかに省くかです。
もうその余計な身体操作は、ほんとうに余計ですので、要りません。
エスカレーターに乗るあの自然なタイミングです。