2014.12.30 おもてなし
ふと、こんな過去を思い出した。私がまだ10代か20代前半のころ。まだ「エス君」が生きていた頃。

トレーニングと関係なさそうな話から、、、それとなく関係付けていきますので、、、最後まで。。。

で、そのエス君とは、家族のようだったうちのわんちゃん。雑種でしたが、やんちゃでやんちゃで、自分に似て個性豊かで、何をするかわからない感じで(笑)。そのやんちゃぶりで、よく家から脱走して、あっちこっち走り回って、、、人に飛びついたりすることはあったが、噛み付くような奴ではなかったけど、、、

で、こちらも探しには出るのですが、範囲が広いため、とうてい見つからないわけです。しかし毎度のことながら、夕暮れ、家の前でいてるんです。エス君が。「怒られる・・・」って顔して。そこでいつもお袋は、エスを家へ招きいれます。エスはすでに反省しているのか、おとなしく犬小屋へ一直線。

このときお袋は、そんなエスにたいし、一切怒らないんです!!
逆に「遠いとこ、行ってたん???」「いっぱい走る回れたん???」
とか話しかけて、エスを逆に温かく迎え入れていたんですね。。。
でも、、、逆にエスは反省もしただろうし、温かく迎え入れてくれて嬉しかったろうし。。。。

実家を離れ10数年、こうしてふと振り返ってみたときに、
何かこう、、、エスと母との家族のような「絆」みたいな「信頼」って感じませんか???

相手の気持ちは、相手にならなければわからない。。。といわれたりします。。。。
こっちが心配“させられた”その気持ちをぶつけたり。。。
ここで“シメて”おかなければ、また同じ過ちを繰り返す。。。だからきっちり締めて。。。

でも母はエスにたいし、相手を察して温かく受け容れるという答えになったのです。しかも「自然に」

・・・・

人でもそうだが、欠点ばかりを指摘されるのも、確かにそれはありがたい指摘だとは思う。
しかし、それよりも、、、
「信じてもらえる」「認めてもらえる」ことが、一番愛情を感じ、一番まっすぐ向上するのではないか。

叱る・シメる・支配する。。。
その前に、「信じ合う・許し合う・認め合う・褒め合う・ねぎらう」という心がありきじゃないか???

そういうところに、人を“本来あるべき姿”へ招き入れる“おもてなしの心”があるんじゃないか???

【余談】おもてなしは、表なし、という漢字が当てられる説もあり、表も裏もない見返りを省みない無垢の心が誰かを思いやる行動になる。自分がやったことがわかる前提での気配りをサービスというのに対し、自分がやったことだとわからない前提での見返りを求めてない気配りをおもてなしという。誰もが本来、心のなかにおもてなしの神様が住んでいて、それは「誰にも気づかせずに人を幸せにする神様」。表も裏もない見返りを求めない無垢な心で質問したときに、おもてなしの神様はほんとうのことを教えてくれる。(参照:「ディズニーのおもてなしの神様が教えてくれたこと」)

・・・・・

じつは、ウエイトトレーニングも、そういうものなのだ!!

重りは、攻撃しているわけじゃない。じゃじゃ馬のようかもしれないが、じつはれっきとした「自然物」
「個性があり、個性を受け容れてもらえて存在している」
ここでシメなければ、、、と支配して攻撃するから、負の連鎖になるのだ。

本来は、、、手なずければ、とても従順!!

支配しなくても「扱う側の意思」に「応えて」動いてくれるのだから。

しかも親孝行ぶりがあって、
扱う側の身体にも(体という物体にも)「その特性」をプレゼントしてくれる。
「動かしたいように、動けてしまう!!」というプレゼントです。


自然は、温かい母のようで、個性を受け容れてくれます。
自分もその自然に習い、個性を受け容れ合って“親しく”なる。
それがウエイトトレーニングだと思う。

・・・

論理的なカタチになり、目に見える表面上の知識だけで「支配するばかり」じゃなく、
「温かい心」「内容を汲み取れるような許しの心や認める心」
こういう心で多くの人とも接することができれば、どれほどすばらしいだろう。。。

お袋がエスにかけた愛情のようなものを、誰にでもかけられたら、また違う好転が起きるのでは???
すべての人がそうできたら、、、世の中きっと変わるだろうに。。。。。

たしかにむつかしい課題かもしれない。
しかし、表も裏もないまっすぐな心で自分をみつめることで、
自分に住むおもてなしの神様が、ほんとうのことを教えてくれるんじゃないか。

たとえば「それ」が悪い印象に映る。。。でもそれは同時に自分に対する反映で、「カタチがこうでなければいけない」と自分を縛っていた証かもしれない。。。だったらまずは「そんな気張っていた自分を解き、許すこと」。そして自分を認め、褒め、ねぎらう。自分にゆとりを持つ。

誰かに、、、といきなり第二人称に行くのではなく、
まずは第一人称である自分にこそ「褒めて認めてあげること」じゃないか。

自分にしてきた行動が、そのまま第二人称への行動になるだろうからです。

そういえば自分を責めてきたんじゃないか???
自分をシメてきたんじゃないか???
もう十分頑張ったんだから。。。自分を(すばらしいと)認めていいんだよ。。。そう声をかけてみるのです。

私は指導者として、説明も「どこか感覚的で、論理性が隠れた」右脳的な指導だと思う。
しかし自分の素顔は、隠れた中に、隠されていることにおもてなしの心があり、
「それはあなたが築いたものだから」「あなたが頑張ったから」というアピールなのだ!!


重りを生き物のように考え、個性を受け入れ、友人になり、受け容れられた温かい中で叶っていく。
「私が施したから、、、」が一切表れない、カタチじゃないものを求めた自身の指導者像
それが、今の自分の考えを築いたわけで、カタチにならないぐらいのものだからこそ、
お客様が手に入れたものになり、ほんとうの価値が表れる、と思うわけです。

ここにも「サービス」と「おもてなし」の違いがあると思う。
「頑張ったのはあなたです」・・・・そういえる指導者でいたい
つまり、、、どんな人でも、最初はそうでなくても、かならず眠ったすばらしいものを持っているんだ。

互いを信じあい、認め合うことで、扉をこじ開けれるのかもしれない
これが、、、これまでのトレーナー人生で何度も味わったこと。
“このブログには”めずらしい内容となった。

小さなことから、、、やってみよう。。。
小さなことから、やってみませんか???
思い出すのに、23年もかかったのでした。
そう、、、23年間も忘れていたのでした。

あるクライアントさまからはこうおしゃっていただいたこともあった。
「できないことを言うんじゃなくって、できたことを言いますよね!」と。
褒めることが多く、できなくても、ステップを組み合わせて、、、、はいできちゃった!!みたいな。

“いいですねえ~”

クライアントになられた方なら耳にしただろう。。。自身の名言。これも、自然発生的にでてきた。
10年近く前、ジュニアの選手たちを見ていたこともあったが、そのときは、“いいねえ~”だった。
子供たちから武田さんの真似風に“いいねえ~”とか(笑)

たしかにそれなりには勉強し、指導経験もし、何より自らトレーニングを実践し、培ってきた。
しかし、根の部分がしっかりしていたのだろう。。。自然にポジティブなものを選び、ネガティブなものを避けていたことを。むしろネガティブなものへの反骨精神すらあった。こんな教わり方をされたら学習意欲が低下する、など。

だから、教わったことをぼすべて捨てて、10年以上続く現在のカタチができた。

俺こそ、オリジナルだ。
でも不思議だなあ。。。。。と。。。
こんな感じで、23年間も忘れていたのです。

何がきっかけだったかは、わかりません。
ただ、、、、
急に天から舞い降りたのです。忘れてはいけないある記憶が。。。

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今回は趣向を変えて。少し自分について語ってみようと思いました。

現在はゴールドジムでパーソナルトレーナーとして活動させてもらっている。もう10年ぐらいやっている。しかしかつては自分も、某フィットネスクラブでジムトレーナーのアルバイトとしてスタートした。当時から目指す方向性があったのに大学受験に2年失敗し、妥協で信用組合に入社し4年後に退社、両親の猛反対のなか、24歳での夢見るフリーター生活が始まりました。

素人同然。そういう学校にも教育を受けていない。
しかし自分にはなぜか、“根拠がないのに”確固たる自信がありました。

「大学4年間でできなかったことを取り返したい」
そういう思いはあった。しかし勉学レベルではさすがに取り返せない。費用もない。しかし、もっと別角度から取り返したい、いや、取り返せる!!そういう根拠のない自信だけがあり、それだけで突っ走ってきたようにも思える。とはいえ、専門書を読むのは楽しかった。受験勉強や銀行の勉強とは違い、何を読んでも楽しかった。トレーニングも週6回やっていて、つまり休館日以外。好きで楽しくて、その勢いが火の玉みたいだった。

当時はよき先輩がいて、ある種ひとつのターニングポイントだったのだが、
解剖学というか筋の位置や構造などを図解したそういう類の書籍について、言われたことが、

「こういうのは鍛える前に読むものではない。鍛えて刺激や筋肉痛を味わって初めて読むものだ」

じつは当時、そういう情報には元々飢えていた自分。貪欲さは計り知れなかった。しかし、自分も一時、度が過ぎていたのだろう。こうして先輩が諭してくれたことが、今の財産です。根拠のない自信をどう活かすべきか、その方向性に立ち返れた分岐点だったと今は思える。

今の自分を見て、自分はそうではないと自負しているが、もしかしたらスマートでシャープな印象があるのかもしれません。しかし、初めは自分も「できない人」からスタートしました。今も「できない人」です!!現在はパーソナルで熱い言葉をかけたりしているが、「遠足は、家に帰るまでが遠足」・・・みたいなアドバイスが意外にも多かったりする。

これは、「できない人」だからこそ感ずる「天性」だと思っている。スクワットでいう「ラックアップからスクワットが始まっている」いや「その前の日常から始まっている」みたいな。そこをいい加減にして、要領だけでスクワットをこなすことに、目をつぶることができないのだ。

こうした目線が配れる泥臭さだけが自信であり、泥臭くテクニックや楽を求めない結果が今の自分だ。
「わかるからできる」のではなく、「できるからわかる」。そう触れてきた。
しかし、ここでいうできるとは、「泥臭くできる」という意味なのだ。
できる前にわかる、、、というセンスではなく、泥臭くできてこそ得られると思うのだ。


情報社会。知識も豊富。それ自体は構わない。
しかし自分は、(センスで)できない人でいたいし、(泥臭く)できることを拒みたくない。
そういう部分にじつはほんとうの事が隠されている、と今になって思えるからだ。