ウエイトトレーニングは、力を入れない技術を習得するためにあります。
そういう技術が、実用性となり、怪我のない、こりもない、動きやすい体作りになります。
というのは、、、私の考えです。

ですが、ものごとの偏見をなくし、まっすぐに純粋に重りという自然物と向きあえば、
私のいうことのほうが、的を得ていると思っています。
でも、力を抜けばいい、というものでもありません。これでは怪我もします。

そういう単純な話ではありません。これだとあまりに内容が薄い。

ああすれば、こうなるから、ああしなさい、これで納得できますか???
納得したとしても、それは一時的なしのぐすべ(対処療法)であって、
そういう安易さに見合う事態になって、自分に帰ってくることでしょう。

だから、、、型にはめる人は、型にはまるだけのうわべの満足しかなく、本質が得られない。
大事なのは、本質です。そこを感じる楽しさ。楽しめる能力。
能力という硬いものじゃなく、好奇心だと思います。

硬い、という言葉がでました。感じれない人は硬いのです。
数値だけですべてを判断したり、方程式だけですべてを裁き、暗記や型にします。
「見てるようで、見れてない上司」って疲れますよね。。。そこです。

逆に、「見てないようで、見れている人」って、どうでしょうか???
変な硬さ、型にはまるような窮屈さがなく、無邪気さがありながらも、的を射抜く。
数値に隠れた人の個性や人間性だったりを汲み取れる包容力。。。

私が理想としてるのは、そういう後者のようなあり方です。
苦言をいうと、この内容がわかりにくい、という人は、前者のような人材だと思います。
さて、前置きが長くなりました。


こういうスクワットで、ようは、完全にしゃがみきったあとで、どうしてどうして力を入れないのにすいすい挙がってしまえるのでしょうか???普通なら、絶対に、力んでしまう。あるいは、ものすごい脚力が要るのでは???と浅はかな判断。そこには、感じ方という感じ方があるのです。

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10kgプレートでお遊戯。
脱力して、重さも感じていますが、感じ方という感じ方があるのだということ。
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過去に、私のトレーニングで「感じよう、感じよう、としてるんです」と言って、目を閉じて研ぎ澄ますようなことをして挙げてたんです。結果、硬いものは硬いままで、中身がまったく変わっていない、という例がありました。私も正直、対応に苦戦したのですが、このように、型ではめ込む人は、「両極端」な発想、、、つまり「ゼロか100か」という発想になるのです。

見てるようで見れてない人、じゃなく、
見てないようで見れてる人、のほうがいいじゃないですか???

感じ方も一緒です。

力を抜けばいいんじゃなく、力が抜けてるぐらいの何のしがらみもない状態であること。
力を入れる必要がない、そこへ持っていくのです。
重力が降ってかかります。これを感じなければ、怪我もします。
でも、過剰に感じてしまっても、ぎこちないことになります。

感じない、、、でもない。
感じてるんです。でも、研ぎ澄ますわけじゃなく、
普通にしてるぐらいなのに、かえってよく感じられている。



私は、こういう表現を活用しています。



感じてるような、感じてないような



だから、、、感じられるのです。
だから、、、力を入れるなどの余計なしがらみがなくなるのです。
ゼロか100か、じゃなく、一見いいかげんな表現かもしれませんが、、、

「見てないようで、見れている上司」
みたいになりたいですよね。落下する重りは感じています。
でも落下に支配されないで、
不思議なあがり方をしてしまう。

でも、落下を、感じてはいる。



ま、、、国語力の問題です。



運動は、バカではできないと思います。
脳みそが筋肉では困ります。
筋肉こそ、脳ミソであるべきです。



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