2017.02.27 自由意志観
ここ数日、自由という言葉の意味についてを真剣に考えていました。これまでたとえば「固めるトレーニングをする人を、批判まではいかなくとも良い気がしなかったり」など、自分で自分を傷つけていたのも、そういう人にたいして自由を認めてなかったから。自分の人生を変えることはできても、人の人生まで変えることはできません。逆に、人から生き方を変えるように言われても、自分で決める自由があります。

人の自由を認められなかった背景には、自分の自由を認めきれていなかったことがある。そう気づいたんです。以前は雑誌に執筆してた勢いあったころは、動作の提唱者みたいだったけど、少し前、あるスタッフがある会員に私のことを紹介するのに「彼は動作の専門家です」と紹介したもらったとき、こういわれたのも10年以上も久しかったせいか、自分がすごくびくついてしまっていて。。。振り返れば「そこだな、、、」と思ったんです。自分を肯定してあげられてなかったんだ。。。と。

だから、堂々と「落ちる、という動作法の提唱者」として生きていこう、と。

振り返れば、他者承認に頼りすぎたいたのでしょう。自称の提唱者じゃだめだと自分を罰す。
それより、わかりやすさという人当たりを求め、自分を押し殺した、他人を中心としたような。
気づいたら、そうなっていたのかもしれません。実際にあのとき、びくついてしまったのですから。

だからまずは、自分もことをかばってあげる、認めてあげる、自由を与えてあげる、という意味で、
「私はこうします」
「すでにこう、決めています」
という、提唱者としても明確な意志を打ち出す。

「私ができるのは、ここまでです」
「私はこう決めています」
と「できること」や「やること」を明確にしてみる。
こうすることで、同意したか否かの不明確なやり取りから解放され、クリアになる。

「私は、こう考えています」
「私は、こうします」
という自由をはっきり打ち出したことで、私自身もすがすがしくなり、
あとは相手の自由であって、その責任もついてくる、ということです。



人を育てることが指導者仕事かもしれないが、その前にコーチでもあります。
実際は、こちらが育てるではなく、こちらが頑張るわけではない。
これだと、逆に人が育たない。それこそ他者承認という依存や無責任になる。

あくまで重りという具材を与え、実感をする「きっかけ」を与えること。
あとは自由に実感していいですよ。ということ。
でも、自然になれば、素敵な感じ方をしますよ。ということ。その結果が、落ちるなのですから。。。

自分が提唱者を封じてしまうのと一緒で、つまりこちらが他者承認になってしまうことで、相手も逆にミスミス他者承認にしかねない。人を育てなければいけない、という思考が、誤った伝わり方を生み、自分を支配的にし、相手を支配下にしてしまう誤解がある。初めからそういうものだと思い込んでしまう、あるいは過程でそう思いこんでしまったら、大変です。意志を持たない依存になる。ようは、自分はどうなってもいいから、育てて欲しい、という無責任。そういう立ち位置から出てくる質問は、ワンマンな丸投げ質問です。それは、自分を感じれていないスタートになります。実感もできないでしょう。うわべは「変わりたい」でも本心では「やりたくない」のですから。

そうではなく、「結果的に人を育てる意味でも」、自分が自己承認になることで、相手に自由を与え、相手が自然を実感していただき、相手が意志を持つ。私が育てるんじゃない。あくまで伝えるだけ。変わるのは、あなただよ、と。あなた次第だよ、と。こうすることで、お互い心地良い責任感が芽生えます。信頼ともいうのでしょうか。。。これは以前も申してきたが、ジム内の中でも私といるその場所だけは、「実感を楽しむ空間」なんです。「楽しむ空間」なんです。自立を育み、自由と意志と責任が心地よく。その結果で生まれる「落ちる」ですからね。。。

「私はこう感じています」
「私はすでに、決めています」
「私にできるのは、ここまでです」



他人が基準ではなく、自分が意志を持って。
誰かの賛同で行動するのではなく、自分の賛同で行動する。
そういう「ウエイト動作」で、そういう「落ちる動作」じゃないか???

相手のことで否定的になるとき、
自分が疎かで自分を大事にできてないことが、わかるようになってきたんです。
自分で自由を奪っているんだ、って気づくようにもなってきたんです。

以前はそうやって相手に不快感を感じていたが、私が自分の自由を奪ってしまい、責任を過剰にかかえていたから。だから積極的に、、、自分のことで肯定し、肯定的に行動しよう、って。結果、、、相手も尊重できたりするわけですから。。。人に認められないことが前提ですが、他者承認ではなく自分承認に頼りたいし、そういう姿勢を伝えていけるようにしたいし、そういう動作法や強化法でもありたい。

自分に自由を。これが最初にありきだと、今では実感しています。




関連記事
スポンサーサイト