2016.12.11 魔法
先日の記事「自分を肯定する」ということを、もう少し掻い摘んでみましょう。
ふたつの動画を比べます。



最初はこちら。悪い動きの例をやってみました。

スピードを上げようと、頑張ってはいるのですが、どこか攻撃的で、
やってもやっても満たされず、溺れていくような動きです。
重い重量を挙げる際の悪い例としてもご覧ください。
(もっとがちがちにやろうとしたのですが、硬い動きにもなれない自分もいたようです)

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こんどはこちら。

そのリラックス感に無理がなく、それでいて、こなせている。
頑張ってない感じなのに頑張れている。
いつでも速くできそうで、重くなっても同じ動きでこなせそうな動きです。
悪い動きを見たあとだから、スカッとすると思いますよ。

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・・・・


自分を肯定する、というのは、
自分を愛する、という意味です。

どんな自分でも、、、ゆるしてあげる。。。

常識や他人の声がこういうから、こうしない自分やできない自分は、恥ずかしい。
これは、自分の声じゃないんです。自分の声って、どういうことでしょう???
「常識や世間の声に違和感を覚える。だから、しなくたっていいんだ」

できない、という言葉も、
それが他人軸からのそれだとしたら、、、
素直に立ち返れば、こうなります。

「どうしてできなければいけないの???」

それなら、、、もっと心に寄り添うなら、、、
「できない」じゃなく、、、「したくない」。
いっそのこと、「しない!!」とばっさりいってしまえば、そこには強い意志が感じられるでしょう。

・・・

落ち込んではいけない。でも傷ついたんですから、、、
自分だけ休んではいけない。でもほんとうに苦しいんですから、、、
笑ってはいけない。でもほんとうに楽しい気分なんですから。。。

我慢を強いたり、感情をスルーして機械的に反射的に行動してたら、
じっくり感じることを、忘れてしまいます。
五感で感じるよろこび。プラス感情が奪われます。

結果、、、誤った判断にもなりかねないのです。

こうしたい!!だから、こうする!!

といった明確な意志がもてなくなります。我慢で自分がもてなくなります。
良い人を演じたり、世間にあわせたり、でもそうやって麻痺していくのです。
当たり前、当たり前、となって、反射的な判断になったり、迷いが生じたりします。
「しなければいけない」みたいな反射的。「したほうがいいのでは」みたいな迷いです。

ウエイトトレー二ング自体がそもそも、追い込ま“される”もの、というわけではありません。
動画を見たとおり、そういう動きやそういう取り組み方では、豊かさがありません。
だから、、、やらされ感しかありません。つまり明確な意志がもてません。

いわば、、、

「目的を達成するのか、追いこむことが目的なのか」

目が醒めましたか???

「マニュアルどおりにこなすのが目的なのか、目的を叶えたいのか」でも当てはまりますね。
内容よりもカタチややったことに満足し、本質がないのです。判断を犯しているのです。
思考癖の怖い部分なんです。

ほんとうは、、、それを決める判断力は、、、感情が握っています。
思考ではありません。他者目線・他人軸で擦りかえられた感情ではありません。
そして、、、重りを扱う、ということは、、、感覚や感情にアクセスするものです。
方法論に走ってしまい、思考にアクセスするものではありません。

他人や世間やものごとを否定しているときは、、、自分がからっぽになっています。
そもそも「その我慢の思考」こそ「否定の裏返し」でしょう???
思考は現実化する、とはいいいますが、我慢したつらさが現実化するのではないのでしょうか?

だったら、、、
自分を取り戻すことが、、、自分を肯定することが、、、目的の達成になる。
そうなりませんか???

「ああ、、、そうなんだ!!」
「そうかそうか。。。そりゃそうだよ。。。もっともだと思うよ。。。」

そう寄り添うだけで、、、どう行動すればいいのかが、見えてきやすくなります。
より心地良い選択をするのです。いばらを踏む必要はないはずなのです。
ほんとうは、、、どうしたいのか。。。そして、、、そう決断し、行動するのです。

そうしたプラス感情に見合う動きが実現し、
その動きに見合う体やコンディションが築かれるのですから。。。
そうやって「自分を肯定」すれば、、、肯定癖がつけば、、、流されることもありません。
ましてや重りは、、、“自分を感じるツール”です。



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