トレーニングに限った話ではなく、いろんなことにおいて、
「しなければいけないこと」として認識されてしまうものが多いような気がします。
トレーニングに関してもそう。そこまでの努力って、ほんとうに必要か???って思うのです。

我慢の美徳みたいになってしまって。。。

でも、その「しなければいけないこと」は、
ほんとうに「しなければいけないこと」なのでしょうか???
「してもいいし、しなくてもいいこと」だったりしないのでしょうか???

「してもいいし、しなくてもいい」



そういう気持ちから、、、純粋に「したい」「やりたい」っていう思いがわくんだと思います。
することに抵抗がなくなって、純粋に「したい」って思えます。
犠牲の心がないから、楽しく続けられます。
そういう「旨いプロセス」を刻めるから、かえって上達もします。

ここで誤解を払拭したいのですが、

上達するから楽しいんじゃなく、楽しいから上達するのです。
上達するために犠牲を払うこと、それを促進させる手法や考え方に、ものすごく違和感を感じます。
そういう人は、自らいばらを選んでしまい、そこを乗り越えることに達成感を感じます。
でも、また、次のいばらが、容赦なくやってきます。

楽しいと感じさせるもの。

情報が普及するのはいいのですが、手法ばかりが優先されて、人の心をないがしろにしてる。
運動でいうならば、やる前から色々「考えさせて」しまう。
そういうスタートからは、感じることができません。楽しい、と感じることができません。
楽しい、と思考してるだけであって、心から楽しめていません。

ウエイトトレーニングを指導する立場ではありますが、
何もすべての人にお薦めまではしていません。
ただ、、、こういう世界観もあるんだよ、と発信してるだけです、


挙がらなければいけない、とは一言も言ってないし、
「挙がっても良いし、挙がらなくても良い」のです。でもそれが、動作です。感じる動作です。
そういう気持ちから、挙がってしまうことにつながっていくし、

スクワットはたしかに、キングオブエクササイズ。ベンチプレス・デッドリフトとあわせてビッグ3。
でも、種目自体に意味があるのではなく、どうこなすのか、に意味があって、
バーべルカールだけで腕や肩や背中が軽くなって、(格闘技)シャドーの動きでキレまくった例もある。

種目やメニューという「しなければいけないこと」は、私にいわせてもらえれば、
「してもいいし、しなくてもいい」のです。
ただ、、、他のどの種目よりも全身が使えてしまうから、全身が変わっていくから、
「じゃあ、、、やろうか???」みたいになっていくわけなんです。

繰り返しますが、、、
「意志」は、「義務」から生まれません。
「意志」は、「感情」や「欲求」から生まれます。

ベースにあるのは、中庸な気持ち。
「してもいいし、しなくてもいい」
そういう「ニュートラル」な立ち居地から「計算のないほんとうの感情や欲求」がうまれ、
意志が目覚めるのだと思います。

たとえば、、、

バランスを取るために、腹筋背筋を鍛えましょう。。。とか、、、どうでもいいじゃない???
バランスを取ることこそ、「してもいいし、しなくてもいい」
それぐらいの「ゆるさ」が、整うことへとつながるぐらいです。

バランスこそ力は不要だし、
何でも筋力で解決させよう、とするその思考から解放させ、感じることを刻むべきです。
思考でならいくらでも作りだせる。それが今の情報社会でしょう。

でも、、、結局、、、というのが答えなんですから。。。

バランスはあくまで「揺らぎ」です。「動作の一部」であって、「固定」ではないのです。
多くが、ものごとを、「静止画像的に」捉えています。
しかし、運動は「ながれ」です。時間とともに立体的に作られるもの。

筋力さえつけば、、、
筋肥大さえすれば、、、

これも順序が逆です。動きの精度を悪くしてまでそうしてしまうのは、意志のない判断です。
強化の基本は、「筋力に頼らない動きでどこまで動かせるか」を磨くもの。
ようは、良い動きを磨きながら強化するもの。
筋力に頼った動きをすれば、そういう鍛え方をすれば、、、使えない体になるのはいうまでもありません。

ポンプやエンジンを大ききしてから動きを磨く???
一度落とした悪くした動きを、また整えなおすわけですか???
こういうことも、ああしなければ、、、と思考したから、意志を感じられなくなるのです。

ああしなければ、、、
こうしなければ、、、

その焦りを停止させ、リラックスしてみましょう。
それは、ほんとうに、「しなければいけないこと」なのか、問うてみるのです。
そして、しなければいけないものを解放させていきながら、望むものを選んでいけば、と思います。

「してもいいし、しなくてもいい」




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