スナッチはいまひとつでしたが、、、その後のスクワットは、本業だけに。。。簡単そうで。。。
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そういえば以前、あるジムで、部下に「スクワット研修」をしたのですが、
若い子だったのですが、なかなかその子の飲み込みが悪く、彼から出た言葉が、こうでした。
「(身体の)高い部分から順々に曲げていく」っていうのはわかるのですが、
「いわんとすることはわかるんですけど、それができない」


このとき、私には二つのショックを覚えたのです。
ひとつめは、、、「上から順々に」という言葉に。
ふたつめは、、、「いわんとすることはわかる、でも、できない」とう言葉に。

そういう世代の苦言をいうわけではありません。
時代もたしかに、答えばかり求める時代で、感じようとしない時代。その苦言でもありません。
ただただ、私の心が傷ついた、ということです。

研修とはいえ、やはり、楽しさを伝えたい。
でも、こういう質問は、楽しんでいない証です。
できなければ、、、という焦りが、、、感情や感覚を奪い、思考に走ってしまう原因。そう思います。

事実、私は一言も「上から順々に・・・」とは言ってないし、
それで「いわんとすること」と摩り替わるのですから。

できなくても、それを笑えるぐらいの。。。

じつはそういう気持ちから、、、単純に感じることへも、つながっていくのです。

そもそも、、、指導者として約20年で培った知恵を申しますと、
「運動は、、、学問ではなく、、、芸術」
ま、芸術家ではないので、中途半端な見解をお許しいただきたいが、
少なくとも、、、強制で繕うものや支配的なものじゃなく、、、どこかマジックというか。。。



その辻褄が合わない不思議な感じを、
楽しめるかどうか。




でもそこに答えがあって。。。カタチや形式になれば、肝心なものが感じ取れなくなります。
彼は、、、重力を思考し、できない自分を責め、カタチを強要してしまったのです。
私は、、、自分が愛するものを、そういうふうに捻じ曲げられてしまったことに、傷ついたのです。



では、おそらくここに登場した彼だけではなく、
彼みたいな人が世の中どんどん増加していると思います。
だからといって、彼みたいな人が喜ぶように、カタチをますます強要して妥協するのではなく、
感じてもらうようにしていきたい。

たとえばこんなふうに。。。10kgプレートがおもちゃに見え、落下の動きのまま持ち上げられてしまう。
落下を受け、感じ、手放すことで、脱力してるのに、すいすい挙がってしまう。
普通なら、挙げる際に、降ろすときと別のギアが入って、頑張ってしまう。うちは、それがないのです。

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簡単そうで、、、、見破れない。
下げたほうが、挙がってしまうなんて。。。
さきほど冒頭のスクワットなんかは、まさにそういう動きです。



カタチにして、重りとの伴走を意識して動いてみたり、
からだじゅうをすべて同時に動かそうとしてみたり、
そういった加工動作、繕った動作、代替。私も以前はそう指導してしまったこともあったが、

結局それが、、、誤解を生みます。芸術性を奪うから。。。



受けて。。。
感じて。。。
手放す。。。

受けずに、感じないから、手放したらどえらい失敗になるのです。
感じられたのなら、それを楽しむことで、手放すことができます。
落下が片隅にある。でもでも、、、どうしてどうして、、、動けちゃう!!挙がっちゃう!!



スクワットでいえば、きれいな潰れ方しゃがみ方ができれば、挙がったようなもの。
重さを正しく受け、感じさえすれば、、、手放す。任せる。
正しく受けて、感じさえすれば、、、感覚の変化に敏感になります。



良い動きとは、、、
その感覚の変化が、
起こらない動き




私は、そう、感じています。



多くはその「感覚の変化」を、あたかも、“自分から”、“必死で”、“起こそうと”、しています。
そうではありませんか???
私から見れば、、、“その余計なことを”、なくしていけば、
しがらみから解放され、自分が解放され、可能性がぐんぐん、広がっていくように、感じるのです。





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