「なれればいいのですが・・・・・」
「変われればいいのですが・・・・・」

というふうに、希望をおっしゃったその語尾に「が」がついてしまう。
その「が」を省けばいいのにね。。。って思うんです。
「が」がある以上、「なりたい」といううわべで「なりたくない」っって宣言してるようなもの。

でも、こういう人やこう思う人もいるでしょう。
「それは謙遜であって、本心では・・・・」
じゃあどうして本心が「さっ」と出ないのでしょうか???
無自覚で出てしまった言葉こそ「本心」ではないのでしょうか???

こういう人は、無意識のうちに「相手の目」を気にしています。
そうやって自分を、自分の感情を我慢させています。
でも、そうなりたいのです、って言うのとが、恥ずかしいことなのでしょうか???
むしろ聞いてて、、、「なれればいいのですが・・・・」って聞く方が、感じが良くないです。
もっとも、、、やるもあきらめるも、本人の問題ですけど。。。

トレーニングを愛する人間は、自分を大事にすることを知っています。
なぜでしょうか???
自分の体と向き合っているからです。肉体で感じ、自分の五感で感じているからです。

常に、、、「私は、、、、(こう感じます)」を無自覚でわかるようになっていくのです。

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現に、したいのです「が」とおっしゃるケースで、うまく行くケースに遭遇したことがありません。
変わるときは、どこかでそれを、その殻を破っています。

私が動作の質を求めたり、運動そのものの楽しさを求めるのは、
それだけ「自分を大事にすること」を伝えているから、なのです。
鍛える理由、、、それこそ、、、「自分を大事にすること」

相手の思いに支配された謙遜は、かえって相手を困らせることもあります。
それより、「自分がどう感じたか」・・・・。それを表現できることが、それを相手に表現したほうが、
かえって相手の心に伝わるのではないでしょうか???


てづだってくれて、ありがとう
いてくれて、心が和んだ
楽しそうにしてくれて、嬉しかった

やっぱり、頑張ってみたいと思うんだ
やれる気がするんだ
少しきついから、休みたいんだ


「しなければいけない」「やったほうがいいのだろうか」
ということは、むしろそれは
「やってもいいし、やらなくてもいいもの」かもしれません。ようは、選ぶ権利は自分にある。

私は「重り」というツールを扱い、それを体で受けてもらい、指導しています。
自分の体で感じ、どう選択するか、の権利を与えているのです。
成功例ばかりをやるわけではありません。とくに最初のころは、そうでない例もやります。
あくまで選択肢は、本人にある。

その選択肢に自信を持ってもらい、体に刻んでいく。

体の声に、応えてあげられる人間になる。




そういうことを、トレーニングを愛する人間として、伝えているのです。







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