前日の記事。「重りは、ゼロkgになるような感じ方をしている」という話。

これは、裏を返せば、
「ゼロkgでないから余計な力が入るようにもなるし、余計な力が入る以上は正しく感じ取れていない」
ということ。

重さが負担になるから、それに打ち勝たなければ危険だと判断し、力が入るのです。
筋力が使われるのです。でもこれは、、、鍛えるという意味ではないと思います。拷問です。
拷問でしょう???だって、乱れた動きになっても耐えられるような強さを磨くのですから。

「水や食料が枯渇しても生きていけるように、今から枯渇した状態のことを想定しましょう」
っていうのと、話は一緒なんですから。

正しく感じましょう。正しく感じたのなら、使われる筋力こそ最小限であって、
動きを整えるでしょう。整えよう、とするでしょう???
間違った充実を捨て、正しく充実させましょう。正しく感じましょう。


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私が見ているのは、「形のできたできなかった」じゃないんです。
「重さを感じられたか否か」
なんです。余計なことをせず、感じられたか否か。

感じずに耐えて、あるいは耐え切れずに逃げたり逆らったり。。。
私に言わせてもらえれば、「耐え切れない」その思考こそ、考えられない。
そんな無茶な設定はしませんし、軽い、と感じるポジションに来ていいんですよ、って言ってるのです。

ですので、「それに対するミスで、力が入ってしまった」ならわかります。
私はそういう部分を見ています。それなら良い失敗だ、と。
重さにたいする歩み寄り。感じよう、としてたこと。そこを見ています。



(追伸)

感じなければいけない
感じられるために、感じることをがんばります。
これこそ思考の迷宮です。

食事をするにしても、ただ腹を満たすことしか考えられず、味わいが少ないのであれば、
味わってみることから。運動だけで見れば、運動という義務感になりがち。
しかし運動は、芸術のひとつです。ほかのことにも通ずるものだと思います。

呼吸ひとつとってもそう。排泄の気持ちよさでもいい。
花屋さんを見て、いいなあと感じたり心が和んだり。
それと一緒で、、、ウエイトも、心地よさを探すもの。感じることで。それがバランスであり芯でもある。

運動暦など当てになりません。
心が豊かかどうか、というのと、
豊かでないからダメなんじゃなく、豊かなほうを知っていくこと。感じていくこと。
そこにあります。




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