たとえば、、、私も一度は体験したいのですが、、、
リンゴ農園やイチゴ農園とかへいけて、そこでもぎたてを食べさせてもらえたとします。
食べたら、、、きっと。。。。。。。想像すれば、、、色々広がってきますね。。。

でも、、、農薬がどう、、、とか、、、つまり“考えて”しまうと、、、
楽しいものも台無しになりますよね。。。
さっきの余韻が、ぶっ壊れますよね。。。

ただ、、、想像することもでき、感じたりもできるのですが、、、
いちばん感じられるのは、、、やっぱり、、、
“生の体験”ではないでしょうか???



みたいな内容が、今回のテーマ。



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近年はとくにそうかもしれませんが、、、
「知らなければ、やらない」みたいな風潮です。
先に情報で予習しちゃってるんです。。。

もちろんそのこと自体は悪いとは思っていません。
ただ、、、本にせよ、、、何にせよ、、、
それを先に作ってしまうことで、余計な先入観が植わることは間違いありません。

私の指導やこのブログでは、「こう動かしなさい」がないのです。
気づいてましたか???
これは、、、実践者としての「尊重」から自然に出たもの。

しかも、、、
これをやるのは、フィジカル要素のこの部分が鍛えられる。
そうやって指導をしていません。

なかには以前、、、こういうことをおっしゃるお客様もおられました。
「これには、、どういう意味があるんですか???」
ここまで行けば、、、すいませんが、、、かなりの重症です。



そこで、さっきのりんごやいちごなどの話を思い出して欲しいのです。
そこから「行動や実践」はどうあれば理想なのか???
を考えてみたいと思います。








「意味を考えてしまう」
という時点で、情報に飲み込まれてるのです。
自分目線である「感じること」ではなく、他人目線である「考えること」になってしまっています。

余談、、、「他人目線=考える」としましたが、決して暗記物としての方程式ではありません。
「他人からみて自分がどう見えるのか」
「あなたが、、、あなたが、、、あなたが、、、」という風に、主語が第二人称になっている。

こんな状態で、自分を感じられるはず、ありませんよね。。。
自分としての「正しい判断」、、、できるでしょうか???

そういう人は、運動を「特別なもの」とすでにそう見ていると思います。
でもほんとうは、、、その「特別意識」が「力みの元」です。
この動画を見れば、わかると思います。

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そういう特別意識が、運動をややこしくします。
ほんとうは、シンプルで、普通で、
それ以前に、、、自分を感じてこそ、今を感じてこそ。

だから、「感じる」であったとしても、
先に「(情報を基準に)考えること」による感情であるならば、、、
それこそ先ほどの方のように、
「これにはどういう意味があるんですか???」ってな感じになる。



こうこうこういう効果があるから、行動する。
きっとこれでは、今に集中できていません。
今に集中できてない、ってことは、今を、自分を、感じられていません。

だって、そこを求めた「力んだ動作」「わざとらしい動作」にもなるでしょう。



運動効果やその実感は、、、
今を味わって、今触れて、今感じてこそ、、、
結果でわかるもの。結果で掴んでいくもの。

どうして私の動きや見本は、、、
出所が見破られない動きをするのか???
簡単そうにやってしまうのか???

(見ている人の)思考を停止させるためです。



私は以前、指導者対象のセミナーや研修会など、やらせてもらったことがあります。
そのときの特徴は、、、
テキストがない!!ということ。

だって、テキストがあれば、、、それを見ちゃうでしょう???
つまり、、、今、俺がしゃべってること、聴けてないでしょう???
もしテキストがあって、それに基づく内容を話したとしたら、
「本質」なんて「感じられない」はずです。

その情報網という「見える化」が、肝心なことをもみ消しているから。。。

終わってみたら、、、「楽しかった」って感じられるよう。
でもそこに「本質」がある。難しい・深い・・・・・という感想では、少し寂しい気になる。
だってその感想は、、、情報としての感想であって、、、。

難しい・深い、、、があっても、そこに「面白い」が含まれていたほうが、嬉しい。




情報ばっかりで他人目線になって「思考」したり「「計算」したり。。。
でも、賢い行動は、、、ほんとうは「感情」や「自分を感じること」「今を感じること」がはじまりで、
そういう感情からは、、、自分への尊重が生まれ、自然と他者への尊重にもつながる。

この手順を間違ってはいけない、と思う。




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