見られてる意識にも、ふたとおりあると思います。
普通は、自分以外の誰かに見られてる、ということ。
見られてる、というと、そこ(その視点・論点)を考えます。

個人的には好みません。受身でしかない、と感じるから。
その受身がたたって、ストレスや出し切れない感や後悔などにつながる。
身が締まったりして気分が良くなったとしても、一時的なことで、
あとから振り返れば、どこか「違うな」と感じたるするものです。

ただ、その「見られてる」にはもうひとつあります。そして、そのもうひとつのほうがとても大事。

それは、、、



自分に常に見られてる



ということです!!だから、すべてお見通しであり、ウソは絶対に、つけないはずです。
そういう意味での「見られてる意識」は、必要だと思います。
つまり、後者側を基準にすべきだということです。



自分に素直でありたいですね。。。

たとえば、誰かが自分の好みを選んだりするわけじゃありません。
流行とか関係なく、自分でいいんじゃないでしょうか。
でもそれが、いちばん、その人を輝かせるような気がします。
その人が、その人らしくあること。でもそれが「最低限の本分」だと思います。

以下、少しだけ私のデスライダーが火を噴きます。




自分は若い頃から流行にながされる自分を持たない人に抵抗があり、
かつて務めていたジムでいた愚かな社員も流行族。その者が放ったバカセリフがこうです。
「流行にながされる、という自分がいる」
それだけ「人任せ、という愚かな自分を持っている」と露呈してるようものです。

先日の大相撲九州場所で、白鵬に照ノ富士が挑んだ際、膝のケガで万全ではない照ノ富士は自分の勝ち越しさえも危うい状況ですが、兄弟子日馬富士優勝への援護射撃に関して、解説だった九重親方(元千代の富士)のスッキリさせてくれる言葉。
「誰かのため、、、じゃなく、
まずは自分のためでしょう」

「ろくに勝ち越してもいないのに、まずは自分のために勝ち越しをまず決めること。そこに集中した結果ですよ」、と。それだけ、邪(よこしま)にならずまっすぐでいなさい、と響いてきて、聞いてて自分もすっきりしたんですね。



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