たしかに、ほんとうに不純物が混在しない純粋なものは、かえって良くない、と考えられますが、
それでも、不純物が混じっていたとしても、その純粋な部分は大事にすべきだと思います。
いろんなものが混じりすぎて、本来あるべき姿が見えなくなってしまうから。

ではその本来あるべき姿や自然な姿って、どういうことをいうのでしょうか???

たとえば自然に触れると、心がいやされます。でもこれは、決して、
「自然が我々に働きかけた」
のではありません。

「我々が、それを見て、感じただけ」
「我々が、それを見て、我々が持っていたものが、引き出されただけ」
「あったものが、引き出されただけ」


自分もパワースポットは信用していません。結局それを見たりそれが入ってきたときに、
「自分の心がどう反応するか」
がすべてだからです。

普段からネガティブな人は、人も褒めません。
明るいニュースを聞いても、感想は「ふ~ん」とか「そのニュースの悪い側面を話題に」します。
あるいは“計算で”ものごとを考えたり行動したり発言したりするでしょう。
だから、いいものを味わったはずなのに、見方も異なってしまいます。意外な発言も耳にします。

少なくとも、誰かに自分がどう映るか、という「印象」「見た目」を気にするのは、あるべき姿ではない。
うちのトレーニングでもそうですが、そういう「見られる目線」の人は、伸びません。
「悪い部分」「できない部分」を飾らず、笑えるぐらいに受け入れられる人がいちばん伸びます。



「世間ではこれが主流だから・・・・」
「これをやったら、周りからの目線が怖いから・・・・」
「周囲と同調しこれをやっとけば、バカにされる心配がないから・・・・」


そんな基準で生きてて、幸せであるはずがありませんし、幸せになれるはずもありません。
どの人にも「子供の心」がある。私から言わせてもらえれば、どの人にも「子供の動作」だってある。
ほんとうに気に入ったことを基準に、計算なく行動できる豊かさ。それに尽きると思います。

誰かが、、、ではなく、自分がそれが好きだから、、、それをしている。
(着ている、食べている、やっている、選んでいる、、、、)

ムリに悪印象を与える必要はありませんが、
内申書の点数をよくするための生き方だけは、したくはないものです。

自分の価値は他人が決めるものではないし、他人に媚びることで価値が上がるわけではありません。
自分で自分の価値を下げるから、ほんとうに評価も下がるわけで、
自分が自分を価値あるものだ、と思うからこそ、評価も上がるはずだと思うのです。

それぐらい、自分には「持っているんだ」と思う、「自分を愛する心」がすべてのはじまり。
そしてうちのトレーニングは、そういった「あったもの」「持っていたもの」を引き出す豊かなもの。

繕って、義務化して、造った動作、やらされた運動ではなく、
あった動作を引き出す、とても癒される、とても楽しめる、とても充実する運動。

だから、、、身体が変わるのも、当然です。

心の部分までも働きかけたものだから。


いまさらやっても、、、、
どうせ自分なんて、、、、、
世間がなんていうか、、、、、


そうあなたが思ってしまうから、
そういう現実を引き寄せるのだと思います。そういうあなたになっていくのだと思います。
明るく溌剌とした人は、自分の色眼鏡が澄んでいるのだと思います。
愚痴、悪口、良くない側面などをくどくど語る人に、明るく溌剌とした人は、見ません。


だれしも、心に、子供のような純粋さや、限界や制限のない思考がある。
それを自分も大事にしたいし、そういうお手本でありたいし、
多くの人に、それを引き出すお手伝いをできれば、と思う。



関連記事
スポンサーサイト