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このように、うちの動作は、重力を受けて動いています。
でも、受けただけでは、動くはずがありません。
あるいは、すごく大きなブレーキを伴った上がり方になる。

しかし、重力をちゃんと受けているのに、動画のようにスムーズに上がって動いています。
筋力で挙げたり、特殊な操作を用いたわけではありません。実際にそういう不思議な挙げ方でしょう?
でも、重力を受けたからこそ、、、叶った動き。だから、重力を受けるって、すごく大事なこと。

その理由を、「受け方」と「思考力」との共存であり、
「受け方」を100%いっぱいにしないこと。隙間・ゆとりを持たせること。としていました。
たしかにそれが実感で、受けること事態がだんだん当たり前になっていき、
まるで「重り」を手なずけるように伴走している感じ。

しかし、思ったのですが、
解釈によっては、受け方を中途半端にしてしまい、力んでしまう動作になりかねない、ということ。
ですので、受けることと疎通すること、というこの二面性の向き合い方について、修正したいと思います。

この二面性。
振り返れば、「受ける」「落ちる」という「表層的」なことをしていく結果で、
「深層」である「まるで意思が重りに伝わったかのように、挙がってしまう」ということ。


まず、受けるがありき、ですが、
100のものを削る、分散させるという風ではなく、
超えないはずの100を、超えないはずの満点を、超えてしまう感じなのです。


ですので、ヨガでいう「瞑想」に近い感じですね。
「無」になりきってしまうことで、
(眠ってしまうのではなく)はじめて「光」が見える。というもの。

たしかにその満点を超えた結果として、
受け方が100ではなく、もっと小さくも感じ、ゆとりがある感じで、二面性が交錯しているようにもなる。
しかし、もっともっと大事なことを触れれば、、、こういう結論です。

ですので、改めて、、、ウエイトトレーニングは、観念を学ぶもの。すごいもの。

はじめは、ブレーキいっぱいの上がり方でも構わない。
あるいは、ブレーキ一杯であっても、挙がってることは挙がってるのですから。これを良しをすべき。
それでも、効いちゃってしまても、その筋がやわらかくなってしまうから。体にひとつの観念が刻まれるから。

押されたまま立ち上がれ、
引かれたまま引けてしまう。

この観念です。これを学ぶのです。すると、意思が叶ったように、重りと疎通できたようになっていく。
その精度を増していくのです。
あるいは、鍛え終わったあとに「動きやすくなったその体」が「ヒント」を教えてくれます。
(もちろん、鍛え終わったあとに、「軽くやわらかく動きやすく」なっていなければ、それは間違った鍛え方)


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以上です。ウエイトで叶った体の状態で日常を過ごせば、自然と変わってきます。
落ちたのに、落ちた、で終わらないのも当然で、安定と素早さが両立したりもするんですから。
落ちる、という自然な脱力や調和。でもそれだけで終わらない。終わっていない。


落ちる・受けるの先が、見えてくるのです。
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