自分は子供の頃から大相撲は見ていましたが、
あえて個人的に好きだった力士を掲げてみますと、
魁皇関や水戸泉関のような、、、「右上手」を取ったら、絶対負けない、みたいな。

歴代の横綱白鵬関だろうが朝青龍関だろうが貴乃花関だろうが武蔵丸関だろうが、、、
「魁皇の右上手」といえば、、、「横綱にも負けない右上手」でしたもん。。。
水戸泉関も、、、潮を撒くだけじゃなく、、、そこにも魅力があって。。。
ファンもわかってて、、、、魁皇関や水戸泉関が右上手を取っただけで館内が沸くような。。。

数年前、大相撲中継で浅香山親方(元魁皇)が解説だったとき、もうひとりの解説の舞の海さんと。
ある大関がはたきこみで破れた際に出た舞の海さんの
「相手に対しいろんな想定をしておかないと、、、」「相手のことをよく考えて相撲を取らないと、、、」
と客体性を強調したのに対する浅香山親方の言葉です。

「そういうのも大事かもしれないが、それよりも、“自分がどういう相撲をとりたいのか”」
「これは(大関であるならば)もっと大切なことだ」

・・・・・はじめに主体性ありきだ、というこの解説に当時、しびれました。

そういうのに自然と惹かれてしまう自分がいて、自分がそうありたい、と思っているもの。
仕事とはそういうもので、人生もそういうもの。
誰かの影響ひとつ、周囲の状況ひとつで自分がころころ左右されるようなのは、とてもつまらない。

ところで自分の指導にも、ある意味「型」があります。

動作ありきの強化だ、ということと、
動作は内的に(知的になって)作る・繕うものではなく、外的を受け容れることで引き出されること。
(つまり、内的の抗いや無駄が剥がれ、恵みを無制限に受け取れる純粋さが引き出されるということ)

「動作」や「私自身」に代名詞がつくぐらい、絶対的な「型」です。(落ちる、です)

ただ、誤解があって欲しくないのが、
「型=個性や癖」という卑屈な意味合いではなく、
「型=王道」だということを自分は考えていて、そこをいちばん言いたいのです。
(客体性に支配された癖のある姿なのか、主体性がありまっすぐ自分を貫いた姿なのか、ということ)

変わってる、とか、類を見ない、とか、たしかにこれまで「多くの方々」に「落ちる」を味わっていただいた。どなたも、かっならず!!といっていいほど、「こんなのは、初めてだ!」と。武術関連の雑誌編集者でさえもそうだった。

しかし、ほんとうは、「より正しいもの」「より理想的なもの」「より王道」を求めた結果なのです!!

やはりこれからも、、、この姿勢だけは貫きたいし、
「さらなる王道」「型の完成」(完成はないのでしょうが・・・)を目指していきたい、と思う。
こういう姿でい続けることが、それを尽力していくことが、いちばんの仕事術だと思うし、
下手なことを考える暇があれば、自分をうまく(楽しく)磨いていきたいと思います。


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