2015.06.07 動作の変遷
うちは、動作にこだわった指導をしています。

どんなにすばらしいメニューであっても、
その動作に問題があれば、価値が半減するから。
その動作がすばらしければ、価値が倍増するから。

なので、理想の動作を自然と追いかけるようになりました。これは元々自分が高校生だったころから始まっていて、部活を悪く言うつもりはありませんが、どこか画一的な空気に呑まれて、自分もいちどドロップアウトした人間。部活を辞めてからのほうが、素人ながらも「そこ」に興味を持つようになった。「カタチ」よりも「内容」だ、と。

たしかに色々勉強はしてきたし、資格も取りました。さまざまなセミナーにも脚を運びました。
でも結局、、、すべて逆のことをやってみたり、またそれを壊してみたり、
2004年に一度雑誌を執筆したのですが、今はその頃の面影すらありません。

それぐらい自分は、、、自分が納得したものでなければだめ!な人だったんだと思います。

今回はその変遷を振り返ってみたいと思います。
が、、、何回も脱皮しているので、
案外過程が抜けてしまったり忘れている部分もあるかもしれませんが、、、




【思い切って、力を抜いてみた】

これは、マシンやバーベルカールで味わったこと。抜き方がたまたま良かったせいなのか、抜いても挙がった。抜いたほうが筋が的確に使えた。しかも、その使った筋が「やわらかくなった」!!だんだんこれを「全身運動」に適応させていった。


【落ちてみた】

抜き方が巧かった理由は、重さの受け方だと思い、目に映る重力を受け入れ、それに伴走した「落ちる」という動作に。自分の筋・身体主体から、自然が主体。他力を借りる。身体を捨て、無意識になる。自動化してなぜか動けた。実感以上に身体も作られた。身体も守られ、脱力も叶い、想像以上の実用性を叶えてきた。


【叶えてみた】

我々は自然の奴隷じゃない。意思を持つ宇宙の子。望みは叶えていい。重力の落ちるという見た目から、「上がること」を見い出し、「上がること」こそ自然じゃないか???と。物理的には落ちるものでも、宇宙的には上がるものや自由に動かせるもの、ではないか。意思が叶うものではないか???動作とは、叶った事後処理ではないだろうか???重い扉の開閉や、荷物を運んだときに、あるいはかつての「落ちていた動作」の中にあったエッセンスを抽出したり。実感はさらに減少し、効かない・効かせないワークアウトに。でも、身体は作られた。当然コンディションも。


【叶っていた】

さらに叶うこと・意思疎通の精度を高め、
上がる、ということだけで、様々に動かせる、にまでいたるのでは???
これが現在です。



と、身体への意識や操作法で動作を作る、という発想ではなく、
重さを扱う扱い方から動作を見出だしてきた。
言い換えれば、、、内的注意(身体側へのアプローチ)ではなく、
外的注意(重りや環境など、身体の外側への関心)だった。

地球や宇宙の知らないことにあえて首を突っ込んでみたり、
何より、自分が味わって、でも、変えてやろう!!と意識したわけではなく、
「自分の気づきが熟練していった」と思う。

この先、どこまで行くのかわかりませんが、、、変化(進化)している自分でいたいと思います。
でも、、、方向性はやっぱり変わりません。
「これが欲しいなら、あれを犠牲にしなさい」風ではない。「これもあれも叶う」というスタンスです。



自分が築き上げた方向性は、、、

自分へのないものねだりではなく、

どなたにも元来備わっているもの!!いわば「自尊心」です!!

「力を抜いてみた」のも、そう。
重力に預け「落ちた」のも、そう。
重力から意思を拾って「上がった」のも、そう。

すべて、、、叶っていない前提を壊し、、、、叶っている前提で考え出したこと。


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