説明しますと、、、


バランスありきの動作ではない、ということ。「え???」と思いましたか???
そのバランスのためにどこぞの筋力が必要、とかではない、ということ。
これらはいわば「手動目線」「筋トレ目線」


重りは電動のように動くものなのですよ


その電動で動く重りが、すべての基準です。
だから結果的に身体の動きや身体の位置まで決めてくれるのです。


上がりたがっている重りも、元は「やる人間の意思」です。
「重りが動きやすいように」がありきで、自然とバランスが取れていくものなのです。
しかも、、、構えという固定ではなく、その静止は動きの一部。固まっていない。

いかがでしょうか。。。

動かないものを動かそう、、、という力み操作や分析操作ではなく、
重さを受けよう、、、と身体の反応を待って少しましにはなったが動きが鈍っていたかつての「落ちる」でもなく、
電動で動くものありきで、あとからついてくる。意思どおりの素直な動き。

こうやって身体が賢くなっていき、動きの知恵を育んでいきます。
命令ではなく即通あるいは自主的学習しているのです。
だからいやでも「動きやすい身体」として、
ジムを出たあとも、身体から動きやすいように導いてくれることでしょう。


固めたり、筋肉目線になったり、分析などの情報や知識から動きを作ったり、、、
これらは身体の自主性にもいいとはいえませんし、
学習の順序として課題も感じますので、個人的には好みません。精神衛生上もいいとは思いません。

「わかれば、できる」ではなく、「できて、はじめて、(よりほんとうのことが)わかる」のだと思います。

「(電動で動くような)その動きありきのバランス」なのです。


加筆:ただし、重りがうごきやすいように(後方など)体勢を崩すということではない。
これだと、足で踏んでしまい、土台ありきの上部となり、動きが乱れ、負担も大きい。
もっと自然でいいと思う。重りが上がるだけですから。電動なのですから。。。


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2014.11.29 手動と電動
ウエイトトレーニング動作では、重りが電動で動いてくれているような感じで、

そのスイッチはこちらが入れているのですが。。。(たとえば「真上に行け」とか)

何かこう、思いが重りに伝わって、重りから動いてくれているようなものでして。。。

なので、筋意識や筋力発揮や操作で重りを動かすような「手動」というのを「脱している」感じ。

でも、、、リモコンにはできませんで、、、やはり触れている必要はあります。


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これまた失礼しました。。。♪
電動のようなニュアンスの例として。挙げる、、、よりは、、、上がる。。。
リアルウエイトは現場にて。。。


(では話の続きへ)

ただ、、、ありがたいのは、、、

こうして鍛えたことは、身体が喜んでくれて、こういうことを身体が刻んでいくことです。

スイッチと電動を。。。
「その思い」が「その動きとして」伝わる観念を。。。


だから、、、正しく鍛えたのなら、

重りを扱わない日常やスポーツでは、、、

自由に好き勝手に、、、動かせてしまうし、、、動けてしまうし、、、それでいてまとまってるし、、、

力みも変な感覚も意識もないんですね。。。手動が脱せているんですね。。。

ストレスフリーで、、、とにかく動けちゃうんですから。。。

もう、、、楽しくて仕方がなくって。。。そんな気分にさせてくれるんですよ。。。


キリがない気づきでいっぱいですが、だいたいの部分を紹介します。

長く続いたこれまでが、受ける動き。吸収する動き。まともに向かい風を受けていた動き。
受けることで身体が感知し、それに答えていた動き。現実に支配されていた動き。
でも、、、現実上最も利口な動き。

そして新開発したのが、受ける受けないではなく、動きが叶う動き。風穴を突き抜ける動き。
対象物に願いが届いたり、自分に願いが届いてしまう動き。現実から脱皮した動き。
魔法を送る動き。魔法のような動き。でも、、、これも現実のひとつだと思う動き。

注意という意識が、自分が良くないなと感じる身体意識。
そうではなく、思考という意識。こうなるんだ、なれるんだ、という動き。

重い扉を開けるとき、でいうならば、
扉の重さや抵抗をまともに受けて、吸収しながらくにゃっと開けていくのが以前の動き。
扉の重さや抵抗に関係なく、扉が開く、、、扉が動く、、、という思いが伝わってしまう動き。手や身体はそれに合わせている感じで、ほとんど押していないしほとんど力を入れていないのに押せてしまっている動き。ちょっとだけ気持ち悪くも、面白く楽しくなってしまう動き。

どんどんいろんな発見があり、きりがなくなっている状態です。
ただ、、、、共通しているのは、「筋力は最小限、あとは動きの問題」って部分。

挙げる動きや戻す動きについても、そう。
「挙げる動きを基準にすれば、抗う動きになって乱れる、まずは負荷を正しく受けなさい」
だから以前は「戻す動きありきの挙げる動き」だった。これが、現実目線では最高のもの。

しかし、、、
その挙げる動きに課題があったからであり、挙がる動きだったら見方も変わるだろう。
つまり、重い扉が開くような挙がり方をすれば、重りのほうから挙がっていくかのような(注:個人の感想)
そう考えれば、挙げる戻すの価値基準も変わってくるだると思う。
後日、挙げる戻す関連を記事にします。。。その記事がこちら

でも感じますが、、、ここまで動けていればたいてい、、、、重さは正しく受けれていると思うのです。
バランスだっていいし、負荷を交わしたテクニック風ではない。むしろまともなぐらい。見た目だけなら教科書的な動きだと思う。ただ、、、何かが違う???見るべき人が見れば、違いがわかる???ぐらいの。。。

日々新しい気づきがあり、日々成長している。
築いたことを作り直すのは、じつはつらさなど微塵もないのです。
飛び出してみれば、こんなにも楽しいものだった、と気づかされる想いです。

楽しさや可能性を育んでくれたこの世界に感謝、って感じです。。。


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見事にスクワットになっています。
これは単なる洒落ではなく、大マジで言っています!!
ここで、そのポイントを申し上げます。

よくスクワットのフォームというと、「膝が前に出過ぎないように・・・」「お尻を後ろの出して・・・」「後ろの椅子に座るように・・・」などといわれますが、これらの注意がなくとも、「ほんとうはできるものだ」ということ!!

できないように動くから、できないだけなのです。しゃがんで膝で踏む、など、ようは各部位に力みがあり、力を使った感があれば、間違いなく「身体のうちなる感覚」つまり「内部注意」になります。上記の注意点も、すべて内部注意でしかありません。

けんだまでスクワット動作ができたその理由は、身体が体重や剣だまの重さを受けたからだ、と以前は解釈していましたが、今は見解が変わりまして。そう、、、身体の外部である「けんだま側」に注意が行き、「球を剣のおさらに持っていくんだ!」という「意思」「思考」が「動きを作った」ということです。たしかに結果的に「重さを受けて、バランスもいい体勢になっています」が、これは、原因ではなく、結果だということです。

おもしろいように「内部注意が行かず、感覚もなく」動けちゃっているのですから!!

すごく大きな話をします。自然というのは、法則ありきの自然ではない、ということ。これだと、法則に縛られてしまい、自然たる無限の可能性が奪われる。でも、たしかに身体の防衛反応として、法則らしきものに従う適応はします。その法則に抗うから乱れて痛めてパフォーマンスが悪いし、体幹などを余計に活躍させなければいけなくなる。だから従うことは大事。それだけで今まで、ずいぶん成果を上げさせていただきました。今では、もう一歩踏み込みたいのです。そう、、、従うことだけが自然ではなく、もっと意思や想像・創造が世界を作っていく、ぐらいの大きさ。馬の足がああいう風になったのも、、、、、みたいな。なので、自然ってほんとうは「無制限でわからないもの」。宇宙と同じで、わからない壮大なもの。だから、自然法則っていうのがおかしいし、自然がわかるってとても不自然なのです。それはきっとこじんまりした世界観だと思いますから。

そう、自然と宇宙は同じようなもので、
こういう運命だからそれに従いなさい、、、と我々を攻撃しているのではなく、
ああもこうも思いが叶っていくんですよ、思う存分楽しんでいらっしゃい、と希望を与えてくれる


法則上では、これはだめだから、やめなさい、ということではなく、
だめだとされたことも、見方をかえれば可能性だって出てくる、そんな大きな温かい存在。

自然とはそういうではないか、、、もっと無限の希望にあふれるものではないか、と感じるわけです。
だから壮大で雄大で、わからないのです。出所もしくみも法則も、ほんとうはわからないのです。
だから、、、「落ちる」という代名詞。。。終わりにしよう、、、とも思ってるんですね。

あとは、バーベルを扱ってすくわっとをやるにせよ、こう動くんだ!!という意思が、動きを作る。
で、突き詰めて出た答えは、「最終的にどうしたいのか!」って部分が叶う気がするということ。

じゃあ、バーベルスクワットなら、、、身体や関節をどうこうしたいことが最終目的ではなく、
バーベルが下がってバーべルが挙がって欲しいのです。それが叶っていくのです。
叶えよう、、、ではなく、、、、

でも、バーベルが下がって上がって、、、、だけでは、身体で操作しがち、、、ですもんね。。。

だから、、、「その秘策」をうちのトレーニングでは教えているのです。「思考が叶うアイデアを」
つづきは、現場で。。。
当パーソナルHPはこちらから
2014.11.22 熟練と開眼
内部注意がパフォーマンスを向上させないことがすでにエビデンス化されています。
同エビデンスでは、熟練者においてもそうで、
熟練者においてはむしろニュートラルで向上が見られた、と。

・自分の筋や骨や関節に注意を促す動作を「内部注意」
・バーベルなどの重りや道具側への注意を促す「外部注意」
・いずれも注意も促さない「ニュートラル」


なので、うちなる細かい意識や感覚に支配されれば、動きの精度は落ちる。
ウエイトでいうならば、重りにモーターがついているかのように挙がっていくのがウエイトたる姿で、
身体の組織をどうこうしよう、とするのは、内部注意になり、動きのロスになる。

通常だったら、どこどこの筋を使いなさい、意識しなさい、この関節を使って動きなさい、といわれるのが、ほんとうは通常ではなかったということ。感じなさい、と感受性を高めることも、通常ではなかったのです。むしろ、いかに「無感覚」で動かせているか。注意を外部に持っていく。「身体を使え」から「重りが動け」へ。その「重りが動け」というのを、筋力や意識という「手動で動かす」のではなく、「手動(筋力や意識)を脱し」「重りが電動のように動けてしまっている」のが、うちのトレーニングになります。だから、、、違うのです!!すべてが!!そして、ついてくるのです。バランスも機能もさまざまな能力も。つまり、身体が賢くなる。


そこで、重りがあれば対象物があるので、わかりやすい。ここまでは「トレーニング場でのこと」
じゃあ、重りがなくなった日常やスポーツでは、いちいち身体を重さという外部として感じなければいけないのか。そこに「一歩誤れば内部注意になる」という警鐘がある。



もうすでに、トレーニングによって「身体がひとつの観念を覚える」のですから。
思いが伝わって動けてしまう、、、という観念です。
好きなように動かしても、そのとおりによくかゆいところに手が届くように動けてしまう、
それでいて、、、整っている。




そこが、真の熟練であり、トレーニングを正しく行えばついてくる正しい効果なのです。
何も筋力で動きを作りなさい、という稚拙な自動化を言っているのではない。これは内部注意だからだ。
トレーニングから離れ、重りという道具がないのならば、もういいじゃないか!自由で!!


だから、自由にかゆいところに自然と手が届くのですから。


それが実用性であり、
それでうまく動けなければ、トレーニングのやり方に問題があるのです



そして、もっとすごいのは、「実用性」としてあっさりとスポーツへ日常へつながっていくこと。
むしろ、点と点をつなげるような」余計な工夫をしないこと!!トレーニングで自然と身体は「賢く」なっています。ジムを出たら、忘れて自由に動いてみてください。
かゆいところに手が届く動きが実現していくことでしょう。こんな日進月歩な継続だったのです!!



これが現時点の見解です。