昨日のしくじり先生、途中からでしたが、私も見ました。
ソニンさん、感動しました。泣けたし、勇気ももらえました。
指示待ち人間だった彼女が、それを克服し、自分の意志を大事にでき、自分を取り戻せた話。

彼女が自分を取り戻せ、誰の指示も仰がない自分の意志で決めたここが自分の居場所だ、と。
その世界(業界)ですごい賞をもらったそのインタビューでマイノリティーって言葉が出たので、
どういう意味か調べてみたら、

「(多数派に対する)少数派」

自分も負けそうになってつい「アウトロー」な気分になるときもある。
でも彼女、そのすごい賞をもらったときのそのインタビューで言ってました。

「マイノリティーの方もたくさんいらっしゃると思いますが、
頑張っていればこうやって認めていただける日もあるんだなということを
私を通じて感じていただければと思います」

自分がこうだと信じた努力は、必ずつながるんだ。
こうだと信じて頑張ってきたことは、必ず芽が出るんだ。
彼女もたしか「意志を持って、信じてやってきたことは、必ず誰かが見てくれてるんだ」みたいに。

彼女の純粋な言葉に勇気をもらいました。
自分の意志を、やはりこれからも大事にしよう。
そういう姿勢は、誰かにも届き、その人へもつながることかもしれないし。

俺は、、、俺でいいんだ。
やりたくてやってるそのやり方やこの仕事で、いいんだ。



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たとえばお客様からの言葉。「今日は調子がいまひとつで、前回は良かったのに」
以前の私なら、「そんなことはない」とその言葉を認めず、(お客様のことを)否定して、励ましていたような気がします。今なら、「そうなんですね」みたいに認めてあげられます。だから、頑張れ、なんて言いませんし、また良くなるよ、とも言いません。「そうなんですか」「そう感じるんですね」。そうすることで、「どこが良くないのか」納得いかないのか」が「具現性」を持つのです。これはとても大事で、そうやって『自分を感じる』ことが、解決法になります。認めずに感じられずに『漠然としたマクロ』は、認めて感じることで『バラバラに細分化させて具現化すること』にしてあげるのです。ですのでその上で「ここをちょっと見つめましょうか???」みたいなことはします。そうやってあくまで「今を感じていただくように」します。

「でも・・・・」と反論するのは、初めから相手を拒んでいるのだと思います。
それが前向きな方向であっても、そうだと思います。

そして、仮にうまくできなかった場合でも、「言い訳」や「身勝手な自己分析での弁解」をする場合は、うまくいってないことを認めてないんです。だから、うまくいくことはないでしょう。それより素直に「今日はうまくいかなかったな」と「認める」ほうが、すばらしいのです。すばらしい声だからこそ、私は「認めてあげる」のです。少なくとも、認められたとき、心が自分に向かっています。自分の感じ方ができています。でも言い訳するなど認めないときは、相手を見ていたり、思考で裁いていたりしてて、自分の感じ方ではありません。

うまくいかなかった。言い訳しない。認める。感じられる。
すると、向上心が湧き出ます。建設的に行動もできます。
感情をすぐに処理できますし、健全です。すがすがしい、とも言います。

言い訳ばかりすると、悲観的破壊的否定的な思考や行動になりかねません。
その言い訳が強がりになり、我慢になり、それが残るのです。
ますます自分の感じ方が鈍り、そのうち「わからない!」と人まで責めかねません。



まずは、認めてみる。
認めたら最後、、、じゃありません。
「認める=支配される」となってしまうのが、そういう思考でしょうから。
そういう思考に走るから、誤ったポジティブシンキングみたいになってしまうのかもしれません。

認めれば、逆に誰からも支配されないし、支配もしないのです。
認めることは、自分を愛することじゃないでしょうか???
自分を愛し足りないことが原因で、うまくいかなくなるのでしょうから。。。




2017.02.27 自由意志観
ここ数日、自由という言葉の意味についてを真剣に考えていました。これまでたとえば「固めるトレーニングをする人を、批判まではいかなくとも良い気がしなかったり」など、自分で自分を傷つけていたのも、そういう人にたいして自由を認めてなかったから。自分の人生を変えることはできても、人の人生まで変えることはできません。逆に、人から生き方を変えるように言われても、自分で決める自由があります。

人の自由を認められなかった背景には、自分の自由を認めきれていなかったことがある。そう気づいたんです。以前は雑誌に執筆してた勢いあったころは、動作の提唱者みたいだったけど、少し前、あるスタッフがある会員に私のことを紹介するのに「彼は動作の専門家です」と紹介したもらったとき、こういわれたのも10年以上も久しかったせいか、自分がすごくびくついてしまっていて。。。振り返れば「そこだな、、、」と思ったんです。自分を肯定してあげられてなかったんだ。。。と。

だから、堂々と「落ちる、という動作法の提唱者」として生きていこう、と。

振り返れば、他者承認に頼りすぎたいたのでしょう。自称の提唱者じゃだめだと自分を罰す。
それより、わかりやすさという人当たりを求め、自分を押し殺した、他人を中心としたような。
気づいたら、そうなっていたのかもしれません。実際にあのとき、びくついてしまったのですから。

だからまずは、自分もことをかばってあげる、認めてあげる、自由を与えてあげる、という意味で、
「私はこうします」
「すでにこう、決めています」
という、提唱者としても明確な意志を打ち出す。

「私ができるのは、ここまでです」
「私はこう決めています」
と「できること」や「やること」を明確にしてみる。
こうすることで、同意したか否かの不明確なやり取りから解放され、クリアになる。

「私は、こう考えています」
「私は、こうします」
という自由をはっきり打ち出したことで、私自身もすがすがしくなり、
あとは相手の自由であって、その責任もついてくる、ということです。



人を育てることが指導者仕事かもしれないが、その前にコーチでもあります。
実際は、こちらが育てるではなく、こちらが頑張るわけではない。
これだと、逆に人が育たない。それこそ他者承認という依存や無責任になる。

あくまで重りという具材を与え、実感をする「きっかけ」を与えること。
あとは自由に実感していいですよ。ということ。
でも、自然になれば、素敵な感じ方をしますよ。ということ。その結果が、落ちるなのですから。。。

自分が提唱者を封じてしまうのと一緒で、つまりこちらが他者承認になってしまうことで、相手も逆にミスミス他者承認にしかねない。人を育てなければいけない、という思考が、誤った伝わり方を生み、自分を支配的にし、相手を支配下にしてしまう誤解がある。初めからそういうものだと思い込んでしまう、あるいは過程でそう思いこんでしまったら、大変です。意志を持たない依存になる。ようは、自分はどうなってもいいから、育てて欲しい、という無責任。そういう立ち位置から出てくる質問は、ワンマンな丸投げ質問です。それは、自分を感じれていないスタートになります。実感もできないでしょう。うわべは「変わりたい」でも本心では「やりたくない」のですから。

そうではなく、「結果的に人を育てる意味でも」、自分が自己承認になることで、相手に自由を与え、相手が自然を実感していただき、相手が意志を持つ。私が育てるんじゃない。あくまで伝えるだけ。変わるのは、あなただよ、と。あなた次第だよ、と。こうすることで、お互い心地良い責任感が芽生えます。信頼ともいうのでしょうか。。。これは以前も申してきたが、ジム内の中でも私といるその場所だけは、「実感を楽しむ空間」なんです。「楽しむ空間」なんです。自立を育み、自由と意志と責任が心地よく。その結果で生まれる「落ちる」ですからね。。。

「私はこう感じています」
「私はすでに、決めています」
「私にできるのは、ここまでです」



他人が基準ではなく、自分が意志を持って。
誰かの賛同で行動するのではなく、自分の賛同で行動する。
そういう「ウエイト動作」で、そういう「落ちる動作」じゃないか???

相手のことで否定的になるとき、
自分が疎かで自分を大事にできてないことが、わかるようになってきたんです。
自分で自由を奪っているんだ、って気づくようにもなってきたんです。

以前はそうやって相手に不快感を感じていたが、私が自分の自由を奪ってしまい、責任を過剰にかかえていたから。だから積極的に、、、自分のことで肯定し、肯定的に行動しよう、って。結果、、、相手も尊重できたりするわけですから。。。人に認められないことが前提ですが、他者承認ではなく自分承認に頼りたいし、そういう姿勢を伝えていけるようにしたいし、そういう動作法や強化法でもありたい。

自分に自由を。これが最初にありきだと、今では実感しています。




私も人を指導する立場上、伝えるということに取り組んではいます。ヒントを与え、きっかけを与えます。そのために、さまざまな情報をお伝えすることもあります。ただ、頑張るのはあくまでお客さまです。私が頑張るわけではないんです。私は、お客様を信じて、託す以外にできないのです。だから、結果が出たり、その変化に喜んでいただけたときは、純粋に嬉しいものなんです。

主役はトレーナーじゃありませんからね。

だから思うのです。
少し変わったかもしれない意見や感じ方を述べますが、
「勉強になりました」という声をお客様からいただくこともあるのですが、






「勉強になった」というだけでは、
何も始まってませんよ。







私は、トレーニングを通じて、自分を肯定することを伝えています。そういう動作論や動作観でしょう???そう思いませんか???読者さん。。。運動やトレー二ングに限ったことではなくさまざまなことにおいて、自分のことなどをすっきりさせたい、自分を大事にしてあげたい、など、ようは自分のことを肯定し、自分のことで肯定的に行動できたとき、って、、、たとえそれが小さなこと(行動)であっても、すごくすがすがしいんですよ。。そういう行動を継続していくプロセスは、自分の未来も変えてくれると思います。新しい自分に出会えた嬉しさというか。

だから、思うんです。
そうやって肯定的に行動していくプロセスによって、、、
はじめて、、、培われるんですね。

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勉強(?)になりましたか???(笑)




静は動なり 動は静なり(プレ編)
静は動なり 動は静なり(本編)

先の記事では感じ方を中心に謳ったのですが、
これも事務的になっては意味合いがずれてきます。
なので、「どういう気持ちで」という部分を今回は謳います。

重りに対峙する気持ちを中心に触れたいのですが、
これはあらゆることに通ずる気がしましたので、「ハートとメンタル」の話になります。
うちではトレーニングを「事務的」には考えてませんし、それが「正しいこと」とは限りません。

いいかえれば、、、「我慢でやるものではない」

まずはこちらの動画をご覧ください。いつもどおりに「簡単」「ラクラク」です。
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「我慢」してることに気づかない方々も多いと思います。
常識や固定観念が浸透してしまい、
「しなければいけないもの」「課さなければいけないもの」と疑わない人も多い。

でも、動画を見て、いかがでしたか???

でも、、、(でもが続いてしまいましたが:笑)

思考が常識化してる我慢の方なら、こう考えてしまうかもしれません。
「じゃあ、、、、どんな手法」「じゃあ、、、どんな技術・テクニック・フォーム・意識」
という「課すもの」「我慢するもの」を得ようとします。

このとき、、、私にはこういう印象を受けてしまいます。
「あなた自身が犠牲になってでも、食らいつきたいのでしょうか???」
「手段を問わず、何が何でも罵倒してでも手に入れたいのでしょうか???」
というふうな、、、「戦う気持ちいっぱいで」「攻撃的な」お気持ちです。

おそらくこういうときは、、、自分を感じられていません。
いばらを選び、闘う気持ちいっぱいで、私さえも怖い印象や恐れる気持ちを感じます。
でもさらにこう畳み掛けるのでしょう。「闘わずして、どうやって手に入れるんだ」

・・・
・・・
・・・

結論からいえば、そういう気持ちだから、吸収できない。会得が難しい。ということです。
でも今度は、両極端で中間の気持ちがなく、「じゃあ、、、ラクすればいいんだな!」と。
そう、、、判断基準が思考から湧き上がり、感情的で感情に振り回された状態。

・・・
・・・
・・・

でも安心してください。そういう人でも変われることができますし、
そこまで戦闘的じゃない豊かな人なら、もっと可能性があるということです。
魔法の言葉を紹介します。



重くって、、、いいんだよ



重いことを、我慢しようとしてきたから、
固めてバランスを取ったり、力に過剰に頼りすぎ、
ケガや実用面に活きない、などにさいなまれていたんじゃないでしょうか???

あるいは、我慢がいやだから、避けてきたんじゃないでしょうか???



私はときどき、、、バーベルなどの重りのことを、「重りさん」と記事で触れたことがあります。
「さん」付けしてます。すごい親近感でしょう???
でもこれは、結果論でそうなっただけで、そうしようとしたわけではないんです。

「重くって、、、いいんだよ」

これは、
そう素直に感じて、いいんだよ。
そう素直に認めて、いいんだよ。
というふうに訳せる、いわば、、、「自分を許してあげる魔法」なんです。

これまではもしかしたら、逆に、自分のことを許してあげられずに、
「もっともっと」「まだまだだ」「こんなことでへこたれてどうする」
と自分に厳しかったんじゃないでしょうか???

不思議なんですが、、、

自分のことを許してあげると、対峙する側も許せるようになっていくのです。
そんな自分が素直になっていく過程で、自分の愛し方がわかるようになっていき、
自分の良さにも気づけるようになっていきます。

これが、私が重りのことを、「重りさん」と呼んでしまう理由です。

・・・
・・・
・・・

重りさんは、たしかに過負荷です。
でも過負荷だからこそ、わたしたちに「感じること」を与えてくれます。
感じられたことで、自分の愛し方がわかっていきます。

それが、、、「自信」というものではないでしょうか???

自分を肯定してあげる。自分を信頼してあげる。
すると、重りさんや重力も「信じられる」ようになっていきます。
こういう心理が、、、私の動作の秘密です。

そして、、、その信頼度が、、、
筋力に頼らないリラックスとスムーズさとやわらかい安定などにつながっていきます。
その信頼度だけで、ほんとうに動けてしまうから、、、ますます「信頼癖」がついていきます。

そればかりか、、、そういう動作で動く鍛えるわけですから、
そういう体にコンディションになっていきます。動けてけがもしない。凝らない。
やればやるほどやわらかく、軽くなっていく。疲れも取れたり。

ますます「重りさ~ん!」って感じになっていきます。



・・・
・・・
・・・



以上、、、実感が大事、と何度も触れるのは、そういう意図から。
普段から、食事でも義務的に食べるよりも「自分のために、味わって食べる」など、
「自分のことを大事にしてあげる習慣」がとても大事だと思います。

時間に追われるよりも、「休みたいときは休む」「やる時間を決めて、その時間だけやる」
周りや評価に動かされるよりも、「自分がしたい、と思うことを、やれる範囲でやってみる」

私もこのような考えに至ったのも、仮に周囲から「変わってる」「難しい」といわれようが、
それで変わるようなものじゃないし、周囲と闘ってそうしてるんじゃなく、
「闘う以上に、それがあまりに気に入り、豊かで、理想だから」と確信してるからです。

そういう確信があるからこそ、、、こびてまで売り込みはしないのです。
だって、、、その人の領域であって、変わるのはあくまで「その人の意志」ですから。
尊重というか、意志を大事にしたいのです。そう思える自分になっていくものでもあります。