うちが求めてるのは、「体の使い方」ありき。
すばらしい体の使い方で行うから、トレーニングの質が激変するのです。
何をやるか、ではなく、どうやるか。

そこが、違うのです。

良い体の使い方に見合う体型・体の質・強さや実用性になります。
普通に考えれば、鍛えれば疲れる。硬くなる?など。
うちは、鍛えたあとのほうが、やわらかくなります。

繰り返します。
見返りを求めて我慢して痛めつける。あるいはその痛めつけることを楽しむのではなく、
かなった自分として、楽しくそれをこなしていく。それ自体を目的にしてしまうことで、
続ければ、面白いように、変わっていけるのです。

その体の使い方とは、、、、

繰り返しますが、「かなった自分としてこなす」
そう、、、かなっていない自分として、今の自分に上乗せするんじゃなく、
すでに、それが、できている、という発見。
言い換えれば、、、余計なこと(動き)、無意識にしてるんです。それをなくす。
「しなくても、、、できていた」の気づき。

そういうことを、ウエイトトレーニングを中心に、体で味わってもらえます。
力って、こういうことだったんだ。
運動って、こういうことだったんだ。
目からうろこ、な発見を楽しみ、それ自体をその時間を、遊戯しましょう。
そういう習慣が、、、あなたを変えてくれます。



メソッドよりも、そのこなし方。
着飾っていびつになるんじゃなく、
なくしたり捨てたりすることで、大事なものが残っていく。

必要なものだけが、残っていく。大事なものしか集まらない。




基本は、スクワット。でも応用も、、、スクワットなのです。




上は、たとえば、、、の話であって、スクワット至上主義とかそういうかたちじゃありません。
情報も、結局は、あなた自身が選ぶもの。
自分のなかに、判断基準を。




また、体の使い方、というのは、
できてた自分に気づくこと。
シンプルに、、、これまでしていた二重の動作を、やめること。

二重の動作だって、案外気づかないもので。。。
その気づきを、与える、きっかけを作るために、私がいてるのです。
二重が取っ払われたとき、、、眠ってた自分が目を醒まし、覚醒することでしょう。

人事を尽くして天命を待つ・・・・こういう受身、見返りを乞う澱んだがんばりじゃなく、
天命を信じて人事を尽くす・・・かなった自分として、今をそれを楽しむこと。

目的のために、我慢する課される前者を脱皮して、
かなった自分として、結果や未来への犠牲じゃなく、それ自体を安心して楽しむ。その持続。「今」をそれだけ大事にできるか。しかも、自分を大いに肯定して!!




大丈夫!!それでいい!!




その取り組みが、、、あなたを変えてくれるでしょう。。。




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意外と盲点、な内容もありますよ。



こっちでは、それを総括するような話をします。
「目標」について。

目標を決めることで、やる気がでたりしますが、
達成することを求めてしまうと、達成できない自分を否定しますし、
途中経過の自分は、達成できてない価値のない自分になります。

という考え方もあります。ほんとうは、目標を達成してなくても、何もしない状態でも自分のすばらしさを認めることが大事で、目標とという制限に縛られると、可能性を縛ることにもなるので、目標は設定しないほうがいい。そういう考え方。私は賛成しています。でも、私は少しだけ、こう感じている、ということ。。。

それは、、、

「目標には、、、ふたとおりある」

ひとつは、さきほどのいわゆる「義務感になってしまいがちなもの」。達成できてない自分には価値を持てないので、達成しても、価値を持てずに「もっともっと」となる危惧。でも、もうひとつ。。。やっぱりあったほうがいい、と感じるのが目標。でもそれは、こういう意味合いです。

それは、、、

旅行へ行くかのような、「楽しみ」としての「目標」



楽しみがないと、人生つまらないじゃない。。。
でも、頑張るんじゃない。結果じゃない。楽しむこと。
でも楽しんだ結果として、楽しい何かがあるんじゃないかしらってこと。



こんな見解です。

私は、トレーニングにしかり、仕事にしかり、



がんばらない。無理をしない。力まない。



をモットーにしています。



ですが、、、



覇気がない!若さがない!あきらめモード!は大嫌い!!



力は入れません。力みはしません。



でも、、、



スイッチは入れようよ!!



・・・・・



これは決して、形だけをきっちりして、その場しのぎな一喜一憂にとらわれて「がんばる」という意味じゃない。これだと、内容を味わえませんし、こういうまじめさが、私にはあまり好ましく思いません。実際こういうまじめさは、怠けているのと一緒。怠けて人生あきらめモードで負の空気に染まってしまうのと、一緒。だって、楽しめてないはずだから。どうしてそれが終わった後、足取りが重いんだ、ってことです。そういうのは、「本気」っていわないと思うんです。それなら、いやなことなら、いやだと認めて流すべきじゃないかと思う。そのほうがよっぽど、その人の波動も良いと思うし、心もすがすがしいんじゃないかしら。。。

ようは、本気っていっても、本気で形だけきっちり、じゃない。
俺が言いたいのは、何に対して本気になるか、ということ。
楽しむことにたいして本気であるべきだ。
(いやなら、いやだと認めること。認めたうえで割り切ること)



やらされ感でカルテにしたがって指示通りやることを否定はしないが、
そういうやり方だと、自分の責任を自分で取れないんじゃないか。。。
誰かに自分の責任を取らそうとして、自分にたいして無責任だと思う。

何キロ挙げた、とか、そういう結果や、いわれたとおりにできたかどうか、
誤解があるのは、うちのトレーニングで、覚えることなんか、ありません。
「覚えなきゃ、、、」それは、すでに、まじめになってしまっています。

高級の銘柄のおいしいチョコレートの味、、、覚えなきゃっておもうでしょうか????
丹波屋のおはぎの味。。。。覚えなきゃって思うでしょうか???

体で感じで、自分で感じたことでしかありません。
これを、「覚えなきゃ」って、ありえません。
不思議で楽しい!!その感想だけ持ち帰ればいいのです。

これが、、、本気になる、という意味です。
形がこうで、こうこうこうしなければいけなくて、、、あ~むつかしい。。。
これは、本気ではありません。



本気や熱くなることに、

力みは伴いません。

ストレスも伴いません。




多くが力みを求めて逃げて、腐ってしまう。
もしくは、我慢して、がんばってしまう。
どっちも一緒だと思うんです。
ストレスいっぱいでしょう。。。若さ、、、いえ無邪気さが欠けてるっていうか。。。




以前車で聞いててたラジオで、新成人だったか、新社会人だったか、が、
これからの志や目標に、
「大人になりたい」「大人らしくなりたい」と思うのでアドバイスを、、、なんて言った返事が、

「『大人にはなるな!!』これをぜひ目標にしてほしい。いつまでもピュアを大事にして、素敵な大人になってほしい。だから、大人にならなくていいよ」みたいな変事をしてたんだよ。キャスターが。俺、聞いててしびれたもん。。。

ある程度は従わなきゃいけない部分はあるかもしれないけど、
ほんとうは、もっと自由を謳歌し、感じるままに、純粋でいてもいいはずで。。。
ましてやこういうトレーニングや運動なら尚のことで、

知的かどうか、じゃなく、どれだけ無邪気でピュアで豊かであることが大事だと思うし、
そういうことを自分は、指導で伝えているんです。
結果がどうこうじゃない。失敗したかじゃない。感じたことを楽しめたか、です。



力を入れない。
でも、
スイッチは入れよう

自分に素直に。ピュアに。

こういうトレーニングをする多くが、
「今の自分に不足があるから」
そういうきっかけが多いのかもしれません。

でも、、、うちのワークアウトをやれば、はっきりわかることがあります。

それは、、、



じつは、、、自分も、、、すばらしいものを、、、もっていたんだ!!



弱い・できない・機能しない・・・・
だから、強く・できて・機能するようになりたい。
でも、はじめがそういう始まり方だと、、、



方向性を誤ります!!



力んで・歯を食いしばって・踏ん張って。。。。



でも、、、覚えてほしいこと。



できる人がいたとして。。。

その人は、、、果たして、、、歯を食いしばって・踏ん張って・必死でしょうか???
熱心ではあると思います。夢中で夢中で、、、一生懸命ではあるかもしれません。
ですが、、、できない自分をいじめるような、そういう過酷さじゃなく、、、



ほんとうのうまい体の使い方やほんとうの体作りや幸せ感を得ようと、
フィットネスしようと思うなら、、、
まずは、、、、



自分を変えなくていい!!



そのままでいいんだ!!自信を持とう!!



あなたは、誰かになることはできません。
あなた自身にしかなることができません。
だったら、、、あなた自身の姿に出会いましょう。

でも多くが、偽った自分の姿に出会っています。
誰かに悪く言われた自分。。。
でもそれは、、、ほんとうは、、、あなたがあなたに責め立てた言葉。。。



体づくり。動き作り。

ほんとうは、、、作っちゃいけないぐらいなんです。
だから、、、作られるんです!!
すばらしいものが!!



ルールルール
規則規則

私は、そればかりに縛られることに、疑問を感じる一人です。そもそも、ルールを侵したことで、時代が進化したじゃないですか???古くは、天動説が地動説になったこと。今では、たとえば喫茶店。もう多くが、セルフじゃないですか???こういうのもタブーを侵ししてみて、はまったからでしょう。携帯電話もそう。こういったインターネットもそう。インターネットショッピングまで。

ですが、新しいことを受け止める勇気がないのか、今のままで安泰でいいのか、従うことは間違いないのですが、そればかりだと「妥協」「(成長への)逃げ」「責任を他へ丸投げ」って感じもしなくはありません。

また、ルールも規則も、こういうケースで発生する場合もあります。それは、「問題が起きたから」。問題が起きなければ発生しなかったルールもある。しかし、今度は「我慢してルールを守ることが正論」となり、そういう正論を振りかざす人は、たいてい「ルールを守らない人」を攻めます。でもよく考えてほしい。どうしてルールができたのか。いつの間にか、意味じゃなく、「守ることそのものの行為」に「正誤」を下すことで、余計なトラブルになる。そういう場合もあります。

結局、、、自分のルールは、自分で決めよ。
でも、決めた以上は、(自分の分だけの)責任を持つ。

また、ルールはときに変えても良いはずで、それを侵す勇気も、ときに必要で、
既存に縛られて、いつまでも従うばかりで、自分で感じようとしないこと。
そこが一番の問題だと思う。


誰にでも当てはまる正解はありません。
でも、そう認めるからこそ、、、他人を尊重できるのではないでしょうか。
そのためにも、

自分で感じる。
自分の頭で考える。

自分のうちに入って、見つめることが大事じゃないかな。。と思います。
そのひとつに、
こういうトレーニングがあります。