2030.12.31 ご挨拶
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ロボットは、おとながつくる
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【もうひとつのブログ】トレーナーは、しょうゆ顔  
【みっつめの】武田さんのワンダーランド
2012.05.15 比重と時間
以前、たしか揺らぎやばらんすという言葉を用いて説明した記憶がある。

推進が伴うとき、静止と同じ体重比率では動けないので、自動的にその比重が変わっていて、その比重の変化自体は、「動作という立場から見れば、静止」。ようは、ながれだけがながれていて、個人はじつは同じ比重という主観である。

その静止はある意味動きの延長線であり、動きだしたその動きはある意味静止の延長。
つまりは、、、次の時間という延長線、つまり「早さ」(速さではなく)。
この「早さ」こそ、「重さ」というものを支配していて、早さがなければただの固定物でしかない。

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前から一度こういうコーナーを設けてみたかったのですが、どのブログでやろうか、とまだ決めかねていました。残りのふたつの軽いブログのほうを考えていたのですが、、、このブログでは絶対やるまい、とも思っていたのですが、俺自身の人間性がそうであるように、ついつい予想外の行動をしてしまうわけなんです。

尚これは100%実話から成ります。パーソナルトレーナーをやる前の頃の契約社員時代からも含めた実話です。ただ、この実話から何かが伝わればうれしく思います。今回は、ある部下(研修生)が自分に向けた質問。それに応える自分のお話です。尚、話の腰を折るのがある意味「特技?」というか、基本会話が途切れやすい人なんです。ただでさえ話題性を持たない人間です。でもなるべく職場ではそういう自分を出したくない。

しかし、、、刺された感触によっては、その先端部分だけでも現われることもあるということです。

では、第1話です。その研修生に「マシンの研修」を担当することになったおれ。しかしその研修生はすでに誰かから研修は受けていた。おそらく俺が最終チェックみたいなモンだろうか。若かりしころ(いえ、今も若い?)はやや鬼軍曹だった俺。でも入りたての子らはまだ俺を知らない。で、その研修生との会話のなかで、どこまで研修できたのか、どこまで理解できているのか、確認していた。で、マシンの種類がいろいろあるなかで、どこの部位を使うのか、わかるかどうか確認してみたところ、こういう答えが返ってきたのです。どのマシンにも説明つきのボードがあって、動きや使う筋が絵で書かれている。それを指して、

「マシン(のそのボード)に書かれている筋肉が、使われるんですよね」

これに俺は即答で、しかも素で、「いや、違うよ」。
少し沈黙。。。
で、ちょっと間を空けて、、、にやっとして相手の目をみてうれしそうにこう言った。

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動きの速度というのは、扱う重りの速度だということです。自体重ならば、体重の速度。
「重さが持つ速度」が基準で、そこに身体を合わせる(合わさっていく)わけです。
つまりは、、、
主観ではたえず、「速度ゼロ」「方向はなし」なのに、固まっていない。動けないのではない。
だから、速くも遅くもできるし、その調節がものすごく自然体。

と、、、普通に跳んだ話になっています。。。

噛み砕けば、瞑想に近い状況ではあると思う。
「何もしない」ことで「何かが起きる」「(外部が自分に対し)何かを起こしてくれる」。
それ以上に重くししょうと加重するのではない。こういうことが「ワンテンポ遅らせ力のロスになる」

等身大なわけです。カタチというものが限りなく“ない”のです。

じつのところ、、、
「落ちる」でも「力を掴む」でもない感じなのです。。。
いや、言い換えれば、「力を掴む」「落ちる」が進化しただけかもしれません。

それ以前に、すでに動けている感じなのです。
いや、状況状況において心地よく適応している感じなのです。
まず「動き」があって、そこから、、、のような感じなのです。

ある意味どんどんわからなくなってきて、
でもこれこそ、本筋ではないか、とも思えている。
わからなくなって、やけくそになって、壊しに壊したときに、何かが見えるのでしょうか。

そうやって自分は成長してきたんですけどね。この程度の成長でしかありませんが。。。

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昨秋から変化というか開拓が起きたのだが、じつは以前と変わらない部分もある。
以前は「落ちる」という表現を用いて、負荷を吸収する受動体であることを求めていた。
しかし、、、これは同時に、、、
「落ちよう」とするのではなく、ムダが削がれて残ったものが「落ちる」ということなのだ。
「こういう力が落ちる力」で「こういう方向が落ちる方向」という先入観もないわけです。

そこに更なる進化があり、「力を掴む」となったわけだが、これもじつは、、、同じ。
「力を掴もう」とするのではなく、「まずは削がれていること」「何もしないこと」。
その結果で「落ちる」を通り越して「力がつかめたかのように動かされる」。
「掴まんとする力はこういう力だ」「その力はこういう方向だ」という先入観もないわけです。

先入観ほど人を硬くしてしまう。
体重計に乗るかのようにふわっとしていること。そういう無の状態。
まずはそこからだと思うわけです。(隙間・距離勘・均一の水玉模様)

「余計な操作」「余計な自発」がなくなるために、筋トレではなく「ウエイト」があるわけですし。

でなければ、、、自分から噴かすアクセル(=ブレーキ)になってしまうわけですから。。。

ウエイトは、負荷を全身で吸収するのが基本。固めたり余計な操作をしないことが基本。
そしてもうひとつ。余計なものがない。“だから”(次の力によって)動かされるということ。
このふたつの意味があると思う。
2012.05.03 研ぎ澄まし
今現時点での到達点を少し振り返ろうと思う。

ウエイトという負荷に殉じて動いていた点では、以前も今も、変わりはない。
しかし、、、以前である「落ちる」というレベルだったころは、負荷がかかるその方向という「目に映る力」しか残らないと感じていた。といってもまあ、、、普通はそうだろう。だから、、、「キック力=地面への加重」だとする専門誌のこーなーも見受けられるぐらいだから。

しかし、、、目に映る状況としての「残りもの」が、完成ではなかったということなのだ。

それが昨秋、自身のなかで揺れ動いたことである。これが現在、かなり仕上がってきた感じである。目に映る残り物が無ではなく、それがあきらかに何かに摩り替わったのだ。それも一瞬のうちに。。。
そういう手応えを急に掴んで、力を掴んで、次の力を、、ということである。

何もないはずなのに、急にそれに擦り変わるように同時に何かが出てきたのである。

いかにも念仏を唱えるように研ぎ澄ましたわけではなく、
感性という意味がそうであるように、、、
何の前触れも無く、いきなり沸いてきたのだ。

あるんだよ、、、力が。。。でも、作っちゃだめ。。。消されてしまうから。。。
何もない・何もしないところから、、、すでに(力や動きが)生まれている。
でも、、、これが日常の動きを構成してる、、、って思いませんか???

と、俺流のこんな研ぎ澄ましもあるということ???でしょう。。。
こんな到達点でした。。。
以前から何度か紹介したことがあるコメントだが、身体のしくみや構造というものは、それを駆使して利用するためにあるのではなく、その人がその人らしくうごきやすいような構造を元々持っているのが、ほんらいのしくみである。こういうしくみがある。。。ならば、、、それだけ放って身体に任せればいい、という意味である。

しかし、、、任せればいいものを、余計な工夫あるいは後天的な癖によって、崩れていくように思う。身体のしくみがまったくわかっていない子供たちのほうがはるかにいい動きをしている。そこに答えがある。
勝手に動けるはずなのだ。そこへたどり着かなければいけないのだ。

あたかも、、、外部が自分のためにレールを用意してくれてるかのように。。。

間違っても自分から圧を発揮させるのではなく、言い伝えか何かしらないながれを先入観として意識的に行うでもない。自分から噴かすというこれらのこういったアクセルこそ、ブレーキなのだ。そうではない。自動という自発動こそ、本来の動きではないだろうか。それが生産性でないのだろうか。安全で効果的という両立ではないのだろうか。

ウエイトの扱いが、まさにそこである。そこに誤解が多い。
抗う美学や固める美学などそういうアクセルに本質があるのではない。
“アクセルというブレーキ”も“ブレーキそのもの”もなく、細く軽くやわらかい力が人を動かすのだ。

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動きたいように動かしてくれるように何者かが整備してくれている。
“ぐっ”とか“どふっ”ではなく、“(あれ?)ぴゅーーー”って感じで。
しくみというのは、むつかしくさせるためにあるのではなく、人をもっと丸くさせるためにあると思う。

そういうことを、求めているのです。そこに判断基準や価値基準があるのです。
2012.04.30 熟練と瞑想
尚自分は、瞑想をしたことがないし、ヨガとかは一切知らない。ただ、うちのクライアントであるヨガ講師からは、「武田先生のトレーニングは、瞑想みたいだ」と言われる。先日そのヨガスタジオでパーティーであり、自分も含めた特別講師陣がすべて集まり、話題は多岐にわたったのだが、その中の会話でも出た話だった。それを自分の中で掻い摘むと、「無、というところから、ホンモノが生まれる」「無までいくことで、初めてホンモノがみえる」みたいな話だった。

熟練。これはうちのトレーニングが目指す方向性である。ムダがどんどんなくなることで、初めて「あるステージ」に上がれるのだ。これを山登りに例えてみよう。ここからさらにどんどんムダがなくなることで登山でき、そしてそれが頂上か中腹かはわかなないが(いや、おそらく中腹だろう)、休憩場みたいな平地になった部分。見渡せば下界の景色のいい場所。そこへたどり着いていくのだ。

何かを起こせば、動けない。何かが限りなく“ない”ことが重要なのだ。

それが以前は「落ちる」だった。「受動」だった。「吸収体」だった。自発というムダが限りなくなくなって、重力に殉ずる自然“かもしれない”動き。しかし、、、昨秋から自身に改革があったように、その中でさらに「ムダ」に気づいたことで、更なる登山が始まったのだ。これでもまだ「ムダ」があったのだ!!事実、負担が大きかったように感じた。いや、以前なら気づかない。でも、もっと自然にならないと、、、それが常にあった。もっと自然なのだ。何かがおきていてはいけない。「何も起こさない=すごい何かが起こる」にロスを感じていたのだ。

そこでたどりついたのが、「力を掴む」「次の力」「誘導」「吸着体」なのだ。とことん無になって、とことん削って、それでみえたのが「くもの糸」のような誰かが引っ張る糸のようなものだ。力とは、ムダな自発で作り出す「ぶっとく、重く、硬いもの」ではなく、「細く、軽く、やわらかいもの」のはずで、そういう理想を求めていたし、必ずそれはあるはずだ、と思っていた。勇気ある行動と思われるかもしれないが、このまま止まってしまうほうが悔いが残る。だから躊躇はなかった。

たしかに、、、「何もしない」あるいは「無」というところから、何も生まれないのが普通だろう。だから皆、何かを作ってしまい、方法論(カタチ)に依存して安心しようとする。それが慢性化したそういう世の中であることはもう疑いない。しかし、、、これでは真実から逆行していることになる。自分は「そこ」に昔から抵抗があったのだ。

これは漫画の世界だが、誰しも乗れるわけでなく、澄んだ心がないと乗れないあの筋斗雲に例えられる。
きちんと無(よい子)になれば、次のステージへいけるのです。
ウエイトは、人を「無」にしてくれる。わざとらしい何かが起きれば警鐘を鳴らしてくれる。
あとは、、、その「無」から「掴み取れるかどうか」なのだ。
「重りの方向=重りの方向ではなく、次の方向」これを掴むチャンスを与えてくれるのが、ウエイトだ。

「無」から生まれた「吸着体」。時間という「次の力」。
「全か無」の法則を自分なりに言わせてもらうと、
「無」であることが「全」であり、「全」とは「全部馬鹿正直」ではなく、むしろ「無」のこと。
全身運動とは、全身を使うことよりはむしろ、全身に分散されて限りなく無であることをいうのだから。

最後に余談だが、俺の数学美。それは、暗記した公式を使って解くことにあるのではない。誰かが作った公式であるならばその根底がある。むしろ自分で公式を作ってしまうぐらいの勢い。そういう味をかもし出せる人間になりたいのだ。しかし、、、ひとつ補足をすれば、公式を使うこと自体は、間違いではない。ただ、その公式が生まれた根底さえ「探せていたのなら」、その公式ならいくらでも使えばいいと今では感じている。

もう余計な知識はいらない。できた結果こそ、知識なのだから。
この動作で、ここに負担が強いられる。強さが求められる。
そこの弱さが命取りになる。
だから、負けないようにそこを強化する。

この強化のことを、トレーニングあるいは補強という。

それならどうして、、、

そこを強いられる動きをしてしまうのか。
そこの強さがなければ、動けないのでしょうか。
強さって、そういうことなのでしょうか。

命は、取られないと思います。

強化すべきは、、、動きだと思います。
そこから逃げた強化は、所詮、トレーニングです。
大事なのは、、、れんしゅう(練習)なのかどうか、、、だと思います。

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2012.04.26 官僚的
なぜか言葉が増えていき、その穴埋めにまた言葉が増えていく。
でも、増えれば増えるほど、、、その泥の部分が見えてくるのです。
そうやって、支離滅裂していくのです。そもそも、それ自体が矛盾なんですから。

カタチの魔力ってすごいと思います。

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